『永遠を前に、今日をどう生きるべきか』
聖書:ルカの福音書16章19-31節(新p151)
メッセンジャー:森英樹師
先週は、金持ちとラザロの違いについて、「何を持っていたか」ではなく「誰により頼んで生きたか」であり、その信仰は生き方に現れることを学びました。今朝は、二人の死後の姿を手がかりに、聖書全体が示す救いの完成を見ていきます。
第一 死は終わりではない
ラザロは死後「アブラハムの懐」に迎えられ、金持ちは「よみ」で苦しみました。死は存在の消滅ではありません。この地上の生涯と永遠とはつながっています。キリストの十字架と復活の後、信じる者についてパウロは、「世を去ってキリストとともにいる」(ピリピ1:23)、「肉体を離れて、主のみもとに住む」(Ⅱコリント5:8)と語りました。主イエス様も十字架上の犯罪人に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束されました。天の最大の祝福は、場所の美しさ以上に、主とともにいることです。
第二 死の向こうには「復活」がある
イエス様は、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。」(ヨハネ5:28)と語られました。すべての人に復活があります。しかし、一つは「いのちを受けるため」の復活、もう一つは「さばきを受けるため」の復活です(ヨハネ5:29)。キリストを信じる者は、善行によってではなく、信仰によって「死からいのちに移っています」(ヨハネ5:24)。そしてキリストの再臨の時、「キリストにある死者がよみがえり」(Ⅰテサロニケ4:16)、朽ちる身体は朽ちない身体へと変えられます。聖書の希望は、魂だけの救いではなく、身体をも含む全存在の回復です。
第三 すべての人は神の前に立つ
黙示録20章には、大きな白い御座の最後の審判が描かれています。「死とよみも、その中にいる死者を出した。」(黙示録20:13)ルカ16章の金持ちがいた「よみ」も最終目的地ではありません。最後にはすべての人が神の前に立ちます。そして、「死とよみは火の池に投げ込まれ」(黙示録20:14)るのです。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」(Ⅰコリント15:26)。キリストは人を死から救うだけでなく、死そのものを滅ぼされます。その後ヨハネは、「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)を見ました。そして、 「神は人々とともに住み……神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(黙示録21:3)と語りました。これが救いの完成です。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」(黙示録21:4)
ラザロの涙も、私たちの涙も、神ご自身がぬぐってくださいます。
永遠を前に、今日をどう生きるか
永遠について知る目的は、未来について詳しくなることではありません。今日、御言葉を聞いて、その御言葉に生きるためです。金持ちは死後、まだ生きている五人の兄弟を案じました。私たちにも、まだ「今日」が与えられています。今日、愛せる人を愛する。今日、赦すべき人を赦す。今日、与えられたものを分かち合う。今日、門前にいる人に目を向ける。今日、御言葉に耳を傾ける。そして何より、今日、キリストにより頼むことです。私たちの永遠を保証してくださるのは、善行でも財産でも信仰の強さでもありません。十字架にかかり、死を打ち破ってよみがえられたイエス・キリストです。だからこそ、すでに永遠のいのちを与えられている者として私たちは問うのです「永遠を前に、私は今日をどう生きるのか」と。
