8月16日 礼拝メッセージ ~聖霊降臨節第13主日~

『正しい者には災が多い。しかし主は…』

聖書:詩篇34篇(旧p964)

メッセンジャー:森英樹師


 「正しい人には苦しみが多い。 しかし【主】は そのすべてから救い出してくださる。」
聖書は「神を信じれば苦しみはなくなる」とは語りません。むしろ、「正しい人には苦しみが多い」と、信仰者にも苦難がある現実を率直に語ります。しかし、それが最後の言葉ではありません。「しかし、主は……」と続くのです。
.信仰者にも「行き場を失う」ような苦難がある
詩篇34篇は、ダビデがサウル王から命を狙われ、ついには敵国ペリシテの町ガテにまで逃れざるを得なくなった経験を背景として歌われました。ガテは、かつてダビデが倒したゴリアテの故郷です。それほどまでにダビデには行き場がありませんでした。ダビデは神に背いたために苦しんだのではありません。むしろ主に従い、サウルに忠実に仕えていたにもかかわらず、サウルの妬みと恐れによって苦難に追い込まれました。私たちも、主に従いたいと願いながら、病、家庭の問題、人間関係、仕事、祈っても変わらない状況などに苦しむことがあります。しかし、苦難があることは、神に見放された証拠でも、御心に背くことをしている証拠でもありません。
 .それでも「しかし、主は」おられる
ガテでも正体を知られたダビデは恐れ、気が変になったふりをし、ひげによだれを垂らすほど追い詰められました。しかし神は、そんなダビデを見捨てられませんでした。後にダビデは告白します。 「この苦しむ者が呼ぶと 【主】は聞かれ、すべての苦難から救ってくださった。」(6節)「この強い者」でも「立派な信仰者」でもなく、「この苦しむ者」です。恐れ、混乱し、祈る言葉さえ見つからない私たちの声をも、主は聞いてくださいます。 「【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ  霊の砕かれた者を救われる。」(18節)信仰とは「私は大丈夫」と強がることではありません。「私は苦しい。私には分からない」と言いながらも、「しかし、主はおられる」と主に身を避けることです。「救い」とは、すべてがすぐ自分の望んだ通りになること以上に、主が私たちを決して御手から離されないことです。そしてその確かさを、私たちは十字架と復活のキリストに見ることができます。苦難のない人生が約束されているのではありません。しかし、どんな苦難も私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。
 .苦難を通った者が、苦しむ人を迎える教会とされる
ガテを去ったダビデは、アドラムの洞穴へ逃れました。すると、困窮している者、負債のある者、心に不満を抱く者たちがダビデのもとに集まってきました。行き場を失った経験を持つダビデのところへ、今度は行き場を失った人々が集められたのです。ここに教会の一つの姿があります。教会とは、問題のない人、強い人だけが集まる場所ではありません。「私は主に助けていただかなければ生きていけません」という者たちが、同じ主のもとに集められるところです。苦しむ人に、すぐ答えを出さなくてもよいのです。そばにいる。一緒に泣く。一緒に祈る。そして、「私にも全部は分かりません。でも主はあなたを見捨てません。私もここにいます。」と言うことができる。それが教会です。神は、私たちの涙も傷も無駄にはされません。自分が支えられた者だからこそ、今度は誰かを支えることができます。神は私たちの傷さえも、誰かを迎える場所へ変えることがおできになるのです。
結び今はまだ、苦難のただ中にあり、答えが見えないことがあるかもしれません。しかし、いつの日か振り返って、「あの時は苦しかった。しかし、主はおられた。」と告白させてくださる主がおられます。私たちの教会が、弱さを隠さなくてもよい教会、傷ついた者の傍らに座る教会、互いの涙と痛みを通して、ともに十字架の主を見上げる教会でありますように。
「正しい人には苦しみが多い。 しかし【主】は そのすべてから救い出してくださる。」19節

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