9月21日 礼拝メッセージ ~聖霊降臨節第18主日~

『キリストによってもたらされた御国とは』

聖書:マタイ6章10節 (新p10)

メッセンジャー:森英樹師

「神の国」に目が開かれると、祈りが変わり、奉仕が変わり、教会や人生の見え方も変えられていきます。では、私たちが「御国を来たらせたまえ」と祈る、その神の国とは何でしょうか。
1. 神の国とは 王なるキリストが来られた(マルコ1:14~15)
イエス様は宣教の初めに、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言されました。神の国とは、まず場所ではなく、神様が王として治めてくださる、神様の善いご支配です。人間はそのご支配を離れ、自分が自分の人生の王となりました。しかし神様は私たちを見捨てず、御子を遣わしてくださいました。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分が王である生き方から、キリストを王として生きる方向への招きです。神の国はキリストによってすでに到来しました。そして私たちは、その御国に生かされながら、再臨のキリストによる完成を待ち望んでいます。神の国とは、王なるキリストによって到来し、やがて完成される、神様の善いご支配です。
2. 教会とは 王なるキリストのもとに集められ、ともに御国を生きる民(使徒2:42~47)
ペンテコステに誕生した教会は、御言葉を聞き、祈り、パンを裂き、ともに食べ、喜び、分かち合いました。彼らを一つにしたのは、同じ年代や考えではなく、同じイエス・キリストを主とする信仰でした。教会そのものが神の国なのではありません。王なるキリストのもとに集められた者たちが、赦し合い、支え合い、ともに御国を生きる。その姿を通して、「神様が王であるところでは、人はこのようにともに生きることができる」と世界に証ししていくのです。教会とは、王なるキリストのもとに集められ、ともに神の国を生き、その御国を世界に指し示す民です。
3. 神の国を生きるとは 「私がどうしたいか」から「主はどう願われるか」へ(マタイ6:10)
神の国を生きるとは、自分の人生の王座を主にお返しすることです。「私はどうしたいか」の上に、「主はどう願っておられるだろうか」という問いを置きます。家庭、仕事、人間関係、そして教会の奉仕の中で、「主よ、あなたは今、何をなさろうとしておられますか。その中で私は何をしたらよいでしょうか」と祈る。そのとき、日々の働きも奉仕も、「主よ、あなたの御心のために私をお用いください」という献身へと変えられていきます。私たちが神の国を造るのではありません。御国の主語は神様です。私たちは、神様がなさる御国のみわざに、恵みによって参与させていただくのです。
結び 「御国が来ますように」
王が来られた。その王のもとに民が集められた。そして、その民が王に従って生きる。ここに、神の国と教会と私たちの日常が一つにつながります。「主よ、あなたが王でいてください。あなたはどう願われますか。そして、あなたがなさっている御国のみわざの中で、この私たちをお用いください。」
分かち合いのために
① 「神の国とは、神様が王として治めてくださること」と聞いて、あなたの理解はどのように変わりましたか。
② 日常の中で、「私はどうしたいか」から「主はどう願われるだろうか」へと、改めて主にお委ねしたいことは何でしょうか。
③ 神様があなたを「この教会」に置いてくださっていることには、どのような意味があると思いますか。

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