『恐れないで、ただ信じていなさい』
マルコの福音書5章35-43節(新p75)
メッセンジャー:森英樹師
長血を十二年間患った女性に、イエス様が「娘よ」と語っておられたまさにその時、ヤイロのもとに「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」との知らせが届きました。娘のために立場を顧みずイエス様にひれ伏したヤイロにとって、「もう遅い。もう終わった」と思わされる絶望の言葉でした。しかし、その言葉がヤイロの心に根を下ろす前に、主は語られます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)と。
1.絶望の言葉よりも早く、主は御言葉を与えてくださる
イエス様は、恐れているヤイロを責められません。恐れのただ中にいる彼に、御言葉を与えられました。そしてここで「信じる」根拠は、娘が助かるという「結果」ではなく、イエス・キリストご自身であることを受け取れるよう導かれたのです。信仰とは、神様の御業が見えるから従うことではありません。御業がまだ見えなくても、主のご人格のゆえに、その御言葉に従い続けることです。信仰とは「状況」を根拠に生きることではなく「主の御言葉」を根拠に生きることなのです。
2.主は「群衆の一人」ではなく「愛する一人」として見てくださる
イエス様は群衆を同行させず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれました。主は「信じなさい」と命じるだけでなく、ヤイロが信じ続けられるよう、その信仰を守ってくださるお方です。長血の女性には群衆の前で「娘よ」と語り、共同体へ回復されました。しかしヤイロには群衆から離れることが必要でした。主は人を十把一絡げには扱われません。一人ひとりを知り、その人に最もふさわしい仕方で信仰を育ててくださいます。
「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」(イザヤ43:1)
私たちは社会では群衆の一人かもしれません。しかしイエス様は、私たちをかけがえのない一人として見てくださいます。
3.死をも支配し、なお私たちの日常を顧みられるお方
イエス様は少女の手を取り、「タリタ、クム。」「少女よ、あなたに言う。起きなさい」と語られました。すると少女はすぐに起き上がりました。35節で「もう先生を煩わせる必要はない」と言った人々、40節でイエス様をあざ笑った人々は、42節では「口もきけないほどに驚いた」のです。人の言葉は変わります。しかし、イエス・キリストは変わりません。しかも、死をも支配される主が最後に言われたのは、「少女に食べ物を与えるように」ということでした。天地万物を治められるお方が、一人の十二歳の少女の空腹まで心に留めてくださる。これが私たちの主です。
だから私たちは告白できるのです。「このようなお方なので、私はこの方を信頼するのです」と。
今週も私たちは、それぞれの現実へ遣わされます。状況は昨日と何も変わっていないかもしれません。しかし、主を信じる者には、どのような時にも主が共にいてくださいます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」
