『教会の希望とは何か』
聖書:ヨハネの福音書6章22-35節(新p188)
メッセンジャー:森英樹師
はじめに
五つのパンと二匹の魚の奇蹟の背後には、「ご自分が何をしようとしているのかを知っておられる主」(6:6)のお姿があります。私たちはしばしば、この先どうなるのだろう、教会の将来はどうなるのだろう、家族はどうなるのだろう、自分の将来はどうなるのだろうと不安になることがあります。しかし教会の希望は、人間の計算や能力ではなく、主イエス・キリストご自身にあります。
1.ピリポは「人の計算」では無理と考えても
ピリポは群衆の人数と必要な費用を計算し、「二百デナリのパンでも足りません」(6:7)と答えました。その計算自体は間違っていませんでした。しかし彼は「イエス様」を計算に入れていませんでした。私たちもまた、人数、経済、能力、現実の課題、ばかりを見て、「無理だ」と結論づけてしまうことがないでしょうか。しかし教会の希望は人間の計算ではなく、「主のご計画の中」にあるのです。
2.アンデレと少年は「足りない」と考えても
アンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。しかし、それが何になるでしょう。」(6:9)と言いました。確かに足りません。しかし主が求められたのは「十分な量」ではなく、「信頼して差し出す心」でした。
少年は小さな弁当を差し出しました。主はそれを受け取り、祝福し、多くの人々を養われました。私たちも、若さがない、能力がない、時間がない、健康がない、と思うことがあります。しかし主は、「何がないか」ではなく、「何をどんな信仰で差し出そうとしているか」をご覧になります。
3.群衆は求めるべきものが何かを分かっていなくても
群衆は再びイエス様を探しました。しかしその理由は、「パンを食べて満腹したから」(6:26)でした。彼らはパンを求めていました。しかし主はそれ以上のものを与えようとしておられました。「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:35)主が与えようとしておられたのは、問題解決、祝福、パンだけではない「主ご自身」でした。これこそがキリスト教の救いの本質です。
結び
ピリポは、アンデレは、少年は、群衆も分かりませんでした。しかし主は、ご自分が何をしようとしているのかを知っておられました。そして今も、横浜栄光教会に対して何をしようとしておられるのかを知っておられます。教会の希望とは、人数、経済、能力、活動ではなく、私たちを知り、必要を知り、今も共に歩んでくださる教会のかしら、主イエス・キリストご自身です。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して拒みはしません。」(ヨハネ6:37)主を見上げましょう。主に信頼しましょう。主は今も、ご自分がしようとしておられることを知っておられます。
