6月7日 聖餐式礼拝メッセージ ~聖霊降臨節第3主日~

『これは私の愛する子』

聖書:マタイの福音書3章13ー17節(新p4)

メッセンジャー:森英樹師

イエス様は、公生涯を始めるにあたり、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。しかしヨハネの洗礼は「罪の悔い改めの洗礼」です。罪のないイエス様が、なぜ洗礼を受けられたのでしょうか。

1.神様は愛であると同時に義なるお方
ヨハネは人々に悔い改めを求めました。「斧が木の根元に置かれている」。「良い実を結ばない木は切り倒される」との厳しい言葉は、神様が罪をそのまま見過ごされない義なるお方であることを示しています。神様は愛のお方ですが、悪を義とはされません。
私たちも神様の前にへりくだり、自らを顧みる者でありたいのです。

2.イエス様は私たちのために洗礼を受けられた
イエス様には悔い改めるべき罪はありませんでした。にもかかわらず洗礼を受けられたのは、①.私たちの模範となるため ②.私たちと同じ立場に立つため ③.十字架への歩みを始めるためでした。
洗礼とは、古い自分に死に、キリストと共に新しい命に生かされることを表します。
イエス様は私たちに「この道を歩みなさい」と示してくださったのです。

3.「これはわたしの愛する子」は私への言葉でもある
イエス様が洗礼を受けられた時、①.天が開かれ ②.聖霊が鳩のように下り 
③.父なる神様の声が響きました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
注目すべきは、この時イエス様はまだ公生涯を始めておられなかったことです。
まだ奇跡も行っていません。説教もしていません。それでも父なる神様は、
「わたしの愛する子」と宣言されました。同じように神様の愛は、私たちの行いの結果ではありません。ただキリストを受け入れたあなたに対しても「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と語ってくださるのです。

結び
律法学者やパリサイ人は、「私たちはアブラハムの子孫だ」という立場やブランドに頼りました。しかしヨハネは、自らの立場や人気ではなく、神様に従うことを選びます。
信仰は肩書きや伝統に生きることではなく、父なる神様との交わりと従順に生きることです。
またイエス様は、「すべての正しいことを実現するのは、われわれにふさわしい」と言われました。主はご自身の働きの中へと私たちを招いておられます。
神様に愛された者として、今週も主の使命に生きる者として、遣わされて行きましょう。

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