4月19日 礼拝メッセージ ~復活節第3主日~

「復活の主を信じるために」

  ~なぜヨハネは信じることができたのか~

聖書:ヨハネの福音書20章1ー10節(新p227)

メッセンジャー:森英樹師

導入
同じ「空の墓」を見ながら、ヨハネは自ら「見て信じた」(20:8)と証するが、ペテロについては「信じた」と語ってはいない。この違いはなぜ生まれたのか?

1.ヨハネは「御言葉に照らして見た」
二人が見たものは同じ、空の墓、亜麻布、整えられた頭布であった。しかしヨハネは、イエス様の語られた言葉を思い起こしながら見た。(「三日目によみがえる」)
その結果、出来事が「意味あるもの」として理解された。信仰とは、出来事を見ることではなく、御言葉に照らして出来事を受け取ること。

2.心を開いて、外からだげでなく「中に入った」
見るとは「目」ではなく「心」の問題。心が閉ざされていると、自分の理解に縛られ、神様の働きを受け取れない。心が開かれていると、神様の可能性を受け入れることができ、御言葉と現実が結びつく助けを、受けることができる。まさにヨハネはこの時「心を開いて見た」。また外からではなく、中に入って見た。信仰とは、外から理解することではなく、中に入り、関わろうとすること、知識ではなく「一歩踏み出す」こと。

3.神様の言葉は創造と回復の言葉
神様の言葉は、絶望ではなく「希望」を生み出すもの。例:イザヤ43:19「新しいことを行う」。ローマ8:28「すべてが益となる」。エレミヤ29:11「将来と希望の約束」。私たちは「状況」で見るのか、それとも「御言葉」を介して現実を見るのか、が問われている

求道中の方へ

ヨハネも、最初から完全ではありませんでした。(20:9「まだ理解していなかった」)
それでも彼は「信じた」のです。信仰とは、全部を理解してからではなく、小さな信頼の一歩から始まるのです。 分からないままで、近づいてよいのです。「神様、本当におられるなら、私に分かるようにしてください」の祈りからで、よいのです。

結論.ヨハネはなぜ信じることができたのか?
すべてを理解したからではなく、御言葉に照らし心を開いて見、そして一歩踏み出した。
あなたは今、外から見ていますか? それとも中に入り、主を体験しますか?
主はよみがえられ、今も生きておられ、あなたを招いておられるお方です。恐れることはありません。

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