9月27日 礼拝メッセージ ~聖霊降臨節第19主日~

『一行の中にいるものと思って』

ルカの福音書2章41-52節(新p112)

メッセンジャー:森英樹師

 1.「一行の中にいるものと思って」(44節)
マリアとヨセフは、イエス様が「一行」の中にいると思い、親族や知人の中を捜しました。当時の巡礼の姿からは、子どもが両親だけでなく、親族や知人を含む共同体の中で見守られていた様子がうかがえます。 信仰継承も、CS教師だけに任された働きではありません。横浜栄光教会に与えられている子どもたちは、「私たちの一行の中に主が加えてくださった子どもたち」です。名前を呼び、声をかけ、祈り、そして何より、主を信じて生きる喜びをその姿によって伝えていく。教会全体で次の世代を愛し、見守っていきたいと願います。

 2.「エルサレムへ引き返した」(45節)
しかし、イエス様は一行の中にはおられませんでした。マリアとヨセフは、自分たちが進んでいる道の中でイエス様を捜しましたが、見つからず、エルサレムへ引き返しました。私たちも「主は当然一緒におられる」と思いながら、自分の考えや慣れ親しんだ方法を進んでいることはないでしょうか。大切なのは、主を自分たちの歩みに合わせることではなく、私たちが主のおられるところへ帰ることです。もし主から離れていたことに気づいたなら、遅くはありません。気づいたら、引き返せばよいのです。 気づいたところが、帰り道の始まりです。
信仰生活とは、一度も道を間違えないことではありません。道を間違えたと気づくたびに、主のもとへ帰らせていただく歩みです。

 3.「ナザレに帰って、両親に仕えられた」(51節)
イエス様は神様を「わたしの父」と語られ、ご自分が神の御子であることを知っておられました。そして、その確かなところからナザレへ帰り、両親に仕えられました。自らが何者であるかに目が開かれていたからこそです。私たちも、仕事ができるから、誰かの役に立つから、奉仕しているから価値があるのではありません。私たちはキリストによって贖われた神の子どもです。 神の子どもになるために仕えるのではなく、神の子どもとされたからこそ仕えることができます。愛されるためではなく、すでに愛されているからこそ仕えることができます。
子どもたちが本当に見たいのは、何でもできる立派なクリスチャンではないのかもしれません。道を間違えることがあっても、気づいたらイエス様のところへ帰っていく大人。そして、「私はこの主に愛されている」という安心の中で、人に仕えている大人の姿なのかもしれません。

まとめ 私たちも、自分が何者であるかをもう一度受け取らせていただき、それぞれの「ナザレ」へ、神の子どもとして仕えるために遣わされていきましょう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次