「真の礼拝とは何か」
聖書:ルカの福音書10章38-42節(新p136)
メッセンジャー:森英樹師
私はマリアタイプ? あるいはマルタタイプ? そう考えたことはありませんか。
マルタはイエス様を愛し、もてなし、奉仕しました。しかし、その奉仕はやがて思い煩いと苛立ちに変わり、ついには妹だけでなく、イエス様にさえも不満を向けるはめとなりました。マルタはどうすればよかったのでしょう。
1.礼拝を妨げるもの
マルタの問題は奉仕そのものではありませんでした。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。」(41節)の通りです。
問題は、①.自分の思い通りに進めたい ②.他者を動かしたい ③.結果まで握ろうとしたことでした。
その時、奉仕はいつしか神様への奉仕ではなく、自分の支配やコントロールへと変わってしまいます。私たちは弱い存在です。責任感が強ければ強いほど、「主のため」が、いつの間にか「自分の王国づくり」に、変わる危険性はあるのです。
2.マリアが選んだ「必要な一つ」
マリアは、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」(39節)
礼拝とはまず、何かをすることより、主の前に座り、主の語りかけを受けることです。それは逃避ではなく、「神様、この自分をどうしたら良いでしょうか」と、自分自身を主の前へ持ち出すことです。イエス様はそれを、「取り上げられてはならないもの」と言われました。
3.真の礼拝は「主日」だけではなく「生き方」を通して献げられる
興味深いことに、後の場面(ヨハネ12章)では、「マルタは給仕していた」と記されています。しかもこの時、イエス様はマルタを責めていません。つまり、礼拝には二つの姿があるのです。
①.主の前で御言葉に聞く礼拝
②.日常生活・奉仕・仕事・家庭を通して献げる礼拝
キリスト者は主日礼拝から遣わされ、家庭で、職場で、人間関係の中で、生き方そのものを礼拝として献げる者として招かれています。
結論
真の礼拝とは、「イエス様を第一」にすること以上に、「イエス様を中心」にして生きる生き方です。イエス様中心なら、家族への愛も、奉仕も、仕事も、隣人への関わりもすべてが礼拝となります。
今週の問い
私は「主のため」に動きながら、心を乱していないだろうか。
私は人をコントロールしようとしていないだろうか。
今週、遣わされた場所で、生き方を通して、どの様に礼拝を献げることができるだろうか。
