メッセージ「贖いは完了した」~パームサンデー ~
※ 礼拝式の中で、本年設置したオルガンの奉献式を行います 。「おお人よ 汝の大いなる罪を嘆け」 BWV622 バッハ作
聖書 ヨハネの福音書19章28-30節(新p226)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師 ※本礼拝にて最後の礼拝メッセージとなります
受難週を迎えました。私たちは主イエス・キりストの十字架を仰ぎましょう。
ヨハネ19:28-30には、イエス・キリストが十字架の上で言われた7つの言葉の内の2言が記されています。「わたしは渇く」と「完了した」です。
「わたしは渇く」
「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(28)。この「わたしは渇く」と言われたこの言葉は、詩編69:21「彼らは…私が渇いたときには酢を飲ませました。」のみ言葉の成就と解されています。
イエス・キリスト「わたしは渇く」と言った言葉を受けて、ローマ兵は側に置いてあった酸いぶどう酒をヒソプの枝に海綿をつけて浸し、イエス様に差し出しました。この時使われたヒソプは旧約聖書にはよく出て来ます。出エジプトするときにも「過越し」で用いられています。ほふられた子羊の血が、ヒソプの枝によってユダヤ人の家々のかもいと門柱に塗られ、(出エジプト12:21,22)ました。そして、血が塗られた家の中にいたユダヤ人は皆裁きから免れ、血が塗られていないエジプトの家々には、神の裁きが成されました。
それから約1300年ほどが経過してイエス・キリストは誕生しました。バプテスマのヨハネはキリストを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:19)と言いましたが、その言葉の通りにイエス・キリストは、人類の罪を取り除く過越しの子羊として、十字架に屠られたのでした。この時、ローマ兵は、たまたま側にあったかもしれないヒソプの枝をとって海綿をそれにつけてキリストの唇に当てたのかもしれませんが、しかし、それは、預言が成就することへの主イエスの渇き(深い思い)と、神の子羊であるイエス・キリストによる人類の罪の贖いという使命完成の宣言との深い関係を示していたことを知る事ができます。
「完了した」
この言葉のギリシャ語原「テテレスタイ」は、商取引で「支払い完了」を意味する語と言われています。逆に考えると、そこには何らかの未払い金があったので、「さいごの支払いが完結した」ということを示唆しているとも言えます。
ローマ人への手紙6章23節で使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死です」と言っています。人類が創造されて間もなく、最初の人アダム・エバ夫妻は「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と神様から言われていたにも関わらず、逆らって食べてしまいました。結果、人類には「死」という代価が課せられることになりました。この罪の代価の未払金をイエス・キリストはご自身の命の代価で支払ってくださったのです。(イザヤ43:1) まさに、「完了した」(テテレスタイ)は、創世記から続く人間の罪の問題と、その罪の中から救い出そうとされる神の計画の集大成であり、神に背を向けた人類の過ちへの「赦し」の宣言なのです。
ヨハネの福音書の特徴
ヨハネの福音書における十字架の記述は、旧約聖書からの引用が多く、「聖書が成就するため」(24,28,36)と、十字架の出来事と旧約聖書との間に深い関係があることを証言しています。これは、イエス・キリストの十字架は、長い歴史を記載している旧約聖書の延長線上にあることと、旧約聖書で記載されてきたことの完成であることを強調しています。ですから、旧約聖書を知れば知るほど神様の人類への愛と、罪からの贖いの真実さに目が開かれてゆきます。ヨハネの福音書は他の福音書が書かれた年代よりも20年ほど後で、高齢になったヨハネが、他の福音書が書き表されていない大切な事柄を記事しておく必要に迫られて書いただろうとも言われています。また、「主に愛されている」と自認していたヨハネは、他の弟子たちが恐れて隠れ家にいたり、また、遠くから十字架を見ていた中で、ヨハネはマリアたちと共に十字架の主のみ足元で、主がお苦しみの中から語られる七言も直接聞いていたことでしょう。そのような中、ヨハネは主イエスがヒソプの枝ぶどう酒を受けて「完了した」という御ことばを耳にしていたことでしょう。
旧新約聖書の証し
旧新約聖書が力強く証ししていることは、神の赦しと救いの計画は「完了した」ことです。人が抱える罪の代価は払われました。「完了した」のです。それ故、私たち罪人はすでに完了した神のみわざをただ感謝し、受け入れるだけでいいのです。私たちは救われるために何かをする必要はありません。すべてすでに完了したのです。(エペソ2:8,9)
イエス・キリストは、十字架上で死を間際にして、「このつらく過酷な十字架を負うという人生がやっと終わった」と言ったのではありません。罪と死に対する完全な勝利の大宣言だったのです。(コロサイ2:14-15、へブル2:14)。そして7言目の十字架上さいごのことば「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言われて息を引き取られたのでした。
参考書 「成長」いのちのことば社 新聖書講解シリーズ「ヨハネの福音書」村上久著
