3月15日 礼拝メッセージ ~四旬節第4主日~

メッセージ 『聞かれない祈り』

聖書 マルコの福音書11章20-25節 (新P91)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

祈っていたにも関わらず、ガッカリする事柄があります。けれども、後になってそれが私たちにとって大切なことだったことに気が付くことがあります。「聞かれない祈り」があるとするならば、それは分別の不十分な人間への神様の愛の配慮とも言えます。

まず、はじめに、「聞かれる祈りの条件」から見て参りましょう。

1, イエスの御名によって求める祈り(ヨハネ16:24)

イエス・キリストのご人格はすべてその御名に示されます。それは、神のあらゆるご性格(全知全能、聖、義、偏在性等)の全て含有しています。私たちが求めるものが、神のご性格にふさわしくないならば、祈りはきかれないでしょう。

2, み言葉が私たちの心の中に生きていること。(ヨハネ15:7)

「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

キリストのことばが私たちの内に生きていることは、私たちがキリストのうちとどまり、キリストが内に生きていることに他なりません。それ故、神のことばであるキリストと一致していることは、み旨に沿っていることの確信に他なりません。(Ⅰヨハネ5:14,15)

3, 求め続け、門をたたき続け、信じ続けること。(マタイ7:7,8)

マタイ7:7,8は継続する祈りを表わしています。ルカ11:5~13では忍耐強く祈り続けた結果として、「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(13)とイエス様は言われましたが、祈っていると聖霊が働かれて、祈り手自身の心と思いをきよめ、神の思い(み旨)と一つになるべくその人の思いを変えてゆくことがあります。これらは全て聖霊のお働きで、結果、御業が起こることを示しています。

では、聖書は、『聞かれない祈り』についてどのように言っているのでしょう。

ヨハネの手紙第一3:21、22は次のように記しています。「愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」ロザリンド・リンカー著「祈り」の中では、この箇所を(詳訳聖書)から、「もし私たちが注意深く神の命令に服従することをせず、私たちのためのご計画に従わないならば、私たちの心は、私たちに罪責を感じさせ、その罪に悩む心のために、私たちは神のみ前に大胆に出ることができなくなるのです。そしてそのために神に願い求めることができなくなり、神が与えてくださろうとしているものもいただくことができないのです」と注解しています。私たちがキリストに繋がって生きていないことが一番の祈りの妨げになっていることを注意しなければなりません。

マルコの福音書11:25には、「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい、そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」と書かれています。人を赦せない気持ちは罪責感を募らせ、神を見る目を曇らせるだけでなく、「ゆるしなさい」と神様が言われているのに、「ゆるさない」と拒むのは、神を拒み、神に対して反抗していることに他ならないのです。

罪は神を無視して自分を主張します。それは、イエス・キリストの権威に、あらわに、また、目に隠されたところで挑戦し、反抗します。キリストに反逆しながら祈りが聞かれることはありません。祈りを妨げている最大の原因がここにあります。神の求められる生き方ができず、自分を責め続けている罪責感、その出所が神への反逆心、即ち罪にあることを恐れなければなりません。

罪の解決としての十字架

ローマ人への手紙5:10(詳訳聖書)「というのは、私たちが敵であった時、神のみ子の死によって神との和らぎを得たのである以上、私たちが和らぎを得たからには、彼の<復活>のいのちによって<日々罪の支配から救い出され>救われることはなおさら<確かな事>なのです」。ここに、私たちの反逆心は、自分で意識している、いないに関わらず、全て、イエス・キリストの復活の力によって、処理されていることを知ることができます。そして、私たちが主に従うとき、その復活の力が現れ出て、私たちを支配している反逆する力も失せてゆきます。顔と顔を合わせて主とまみえている時、そして、主の愛が私に注がれている時、それまで、自分の力でしようとしていた事柄を、不思議にも、主にお任せすることができるようになり、もはや自分を責め立てることもなく、平安の中で祈りはきかれてゆきます。(めぐみの中にいてこそ、私たちは全てを明け渡すことが可能になります。)

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:32-34) ハレルヤ!聖名を賛美します。私たちの祈りは神に聞かれています。

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