Essie H. Exum
(エシー ・ エイチ ・ エクサム)

栄光教会創立者のプロフィール
1893年 アメリカ南部バプテストの牧師L.G.Earleの娘として生まれる。
1900年 7歳の時に母親が亡くなる。
1911年 18歳で結婚し3人の子供が与えられる。
1919年 結婚8年後、夫に先立たれる。
1923年 その4年後にCharly L.Exumと再婚、息子が一人与えられる。
その後二番目の夫にも先立たれる。
1957年 64歳の時に「行きなさい。そしてすべての国民に教えなさい。」(マタイ28:19)との聖書の言葉により宣教師として来日する。
栄光教会創立から無牧期に至るまで
宣教師仲間がいた山下町の横浜華僑基督教会を拠点に日本での宣教を始める。来日してすぐ当時欧米人に多く診られた横浜喘息になる。医者や周りの宣教師に帰国を勧められるが、全財産を売り払い日本に骨を埋めるつもりで来日したその目的である「子供のためのキリスト教教育と宣教」のための施設を探す。ある日「横浜の南の方に売りに出ている幼稚園がありますよ」と横浜市南区大岡町字大丸の「大丸幼稚園(教師2名、園児22人)」を紹介される。売主側は抵当権が付いている物件を外国人相手ということで騙すように売りつけたものと思われるが「神様、この山を下さい」との祈りの中で12月に幼稚園を職員ごと買い取る。
1955年の大丸幼稚園設立に協力した教師の一人は1957年度内に退職するつもりであったが、エクサム師に「あなたも一緒に買い取りました」と言われ、ついには幼稚園が閉園する1989年まで働くことになる。
大丸幼稚園を「栄光幼稚園」と改めキリスト教保育を始める。宣教師仲間のマーシュ師が院長を務める当時山手にあった共立女子聖書学院(同盟系)の神学生に日曜学校を手伝わせたり、未信者であった幼稚園の教師に聖書の話をさせるなど、精力的に子供のためのキリスト教教育を行う。 日曜日には幼稚園の教師、職員、園児の父兄などを集め園舎の一室で「モーニングサービス(礼拝)」を始める。また市電の中や病院などでもトラクトを配る熱心な宣教活動をする。
1960年 喘息が悪化し帰国を余儀なくされる。帰国11日前の7月10日、礼拝に出席していた中から5名が洗礼を受ける。エクサム師は牧師ではなかったため、日本同盟基督教団の宣教師(と思われる)サップスフォード師により、横浜華僑基督教会の礼拝堂にて洗礼式が執り行われる。

7月21日、幼稚園の園児、卒園児、父兄など多くの人に見送られ横浜港から帰国する。 受洗した5人には「わたしが帰る日を栄光教会の設立日としなさい」との言葉を残し2年7ヶ月の宣教活動を終える。

1960年~ エクサム師は初めの5人に洗礼を授けたサップスフォード師に栄光教会を委託する予定であったが、幼稚園の抵当権が抹消されいなかったことなどが判り、サップスフォード師はすぐに教会を去る。
(後にエクサム師により全ての金銭問題は処理される)

エクサム師が「教団に入ってはいけません」と言い残したことで、受洗したばかりの5人の栄光教会は、教会設立後すぐに無牧になる。本牧にあったキリスト教書店などキリスト教関係者に牧師を紹介してもらうが、定着する牧師はなく無牧が約8年続く。 それでも礼拝は一度も休むことなく続けられる。

日本イエス・キリスト教団への加入、「横浜栄光教会」スタート
1965年 一人の信徒が関西に転勤になり、日本イエス・キリスト教団垂水教会に出席する。 栄光教会に多くの受洗者が与えられないこともあり、この教団に入って牧師を派遣してもらいたい旨をエクサム師に伝える。エクサム師もこの教団について調べたところ、明治の日本で活躍した英国宣教師B.F.バックストン師の流れを汲む教団であることが判り日本イエス・キリスト教団への加入を了承する。

1968年 日本イエス・キリスト教団から小倉望牧師が遣わされ、宗教法人格を取得した「横浜栄光教会」に幼稚園とその土地、建物を寄贈する。
エクサム師、その後・・・
1969年 アメリカで所属していたバプテスト教会の協力で「The Victory of Faith (信仰の勝利)」という自叙伝を著す。
(このホームページでの教会の歴史とエクサム師の略歴もこの本を参考にしている)
1970年頃 毎年横浜栄光教会からエクサム師にクリスマスカードを送っていたが返事が来なくなる。この頃エクサム師が召されたものと思われる。
