メッセージ 『キリストの愛にとどまる』
聖書 ヨハネによる福音書15章7-11節(新p216)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
ヨハネの福音書15章はぶどうの木の例えを通して、豊かに実を結ぶ秘訣が書かれています。豊かな実を結ぶために大切なことは枝が幹に繋がれていることです。きよい神様に繋がるために枝である私たちがしなければならないことは、真実に罪汚れを悔い改めることしかありません。枝が折れていたり、切り離されていては実を結ぶことはできません。ただ枯れてゆくだけです。イエス様は、4節から俄然「とどまりなさい」「とどまりなさい」と語りかけ、7節では、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と言われました。なぜなら、私たちが豊かな実を結ぶことによって、天の父が栄光をお受けになることだから(8節)と、仰っています。
9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われていますが、イエス・キリストの愛について、Ⅰヨハネ3:16には、「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをすててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と書かれています。その神の愛について、深堀してみましょう。
ヨハネの福音書21章で、私たちの罪の贖いとして十字架にかかられたのち、甦られたイエス・キリストは、弟子のペテロに、「私を愛していますか」と三度もお声をかけられました。それは、ペテロが一番弟子だったからではありません。彼は、キリストが十字架におかかりになられる前に自分も捕らえられるという恐れから、三度、「私はキリストを知らない」とうそをつき、キリストを否んだ過去があったからです。イエス様はご自分を裏切ったペテロを前にして、「ペテロ、あなたは私を愛していますか」と尋ねられたのでした。普通に考えて、私たちは、自分を裏切ったり、嘘をつくような人は避けて通りたいところです。けれど、イエス様は、ご自身から近づかれて、お声をかけペテロの信仰を回復されただけでなく、ご自身が十字架の血で贖われた大切な神の羊である群れを、ペテロに委ねられたのです。イエス・キリストが愚かで迷いやすい私たち人間に抱く愛とはそのような愛です。
このキリストの愛にとどまる時、私たちは想像もできないような豊かな祝福の実を結ぶことができると15章は語っています。
キリストに繋がれる、キリストの愛にとどまることのすばらしさ
知り合いの牧師は、結婚された後、献身して神学校に行きました。働き盛りの夫が神学校へ行くことによって、育ち盛りの2人の子どもは夫人の手に委ねられることになりました。夫人がまずしたことは、毎月の必要経費を計算し、祈りの中で神様に訴えることでした。その時、「さて、信仰は、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(へブル11:1)とみ言葉が強く心に響きました。ある時お買い物の帰り道、病院事務員募集のチラシが目に入ってきました。採用され、そこでの謝儀が家族三人が生活する上でピッタリの額だったことを証しされていました。やがて、ご主人も神学校を卒業され、長い間滋賀県の八幡福音教会という教会で牧会伝道をされ、使命を全うされました。青年時代から献身に導かれていましたが、結婚され夫人の同意が得られなかったのであきらめかけていたところ、塩屋聖会で語られた御言葉に応答し従われたと言うことでした。結果、その先生が語られたメッセージや書かれた書物を通して沢山の人たちが主に導かれ、献身する人も起こされ、天の父は栄光をお受けになられたのです。
またイエス様は、「わたしの愛にとどまりなさい」(9)、「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」とも言われました。キリストの愛にとどまるとは、みことばに従うことであることを表しています。
新聖書講解シリーズの「ヨハネの福音書」を執筆された村上久師が書かれた記事が目に止まりました。村上師は、ある時から野菜作りをされたそうです。全く経験のなかった先生は、苗を植えさえすればひとりでに実がなると考えていたそうですが、してみれば、花は咲いても実がならなかったり、実がついても黒ずんでいたり、葉も茎も枯れ始めることがあって、困難な仕事であることに気が付いたということです。ところが、その年は違っていて、びっくりするほど沢山の良き実がなったということですが、その秘訣は、「野菜づくり全書」と言う虎の巻に書かれてある通りを行ったからだというのです。そのように、信仰生活もまた、一生懸命してみるが、どうもうまくいかないと思うことがあれば、信仰生活全書ならぬ、聖書のみことばにまず従ってみるところから始めてみられては如何でしょう。結果、私たちの内にキリストの喜びが流れて来ることを体験するでしょう。逆に、もし今、私たちに喜びが無いならば、どこか、神さまとのパイプが詰まっていたり、壊れているところがあるかもしれません。それこそ、信仰生活全書ならぬ聖書を開いて、どこから離れてしまったか、点検してみることも大切なことです。
イエス様は、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(11)と仰られました。
