メッセージ 『しかし、私たちの国籍は天にあります』
聖書 ピリピ人への手紙3章17節-4章1節(新p398)
メッセージ 高江洲伸子牧師
その人の目がどこに向いているかで、その人の人生と永遠が決定されます。使徒パウロの目は、滅びゆく者への涙に濡れ、救われる者の栄光の朝に輝いていました。キリスト者の涙と栄光、栄光に輝く悲しみの目、この目こそが真のクリスチャンの証明です。
Ⅰ 模範に倣う
「子育てで一番大切なことは何でしょうか」とシュバイアー博士に質問をした人がいました。その質問に対して博士は、「一番大切なことは良い模範を示すことです」と答えられたそうです。ところが現代においては、子どもたちの目は、模範となる親や教師以上に、携帯やアニメの主人公に向けられていることが多いのが現状です。けれど、社会がどのように変わっても、聖書のことばは昔も今も変わることがなく、「兄弟たち、私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(3:17)と言った、聖書に書かれているパウロの言葉は、今も私たち一人一人に力強く語りかけています。
よく、私たちは、「私を見ないで、イエス様を見てください」と言ってしまいますが、実はこれは謙遜のように見えますが、無責任なことばでもあります。なぜなら、見えないイエス様を証しするのがクリスチャンだからです。(世でのキリスト者の存在は、主を信じた者を通して主が見られてくださる神の証し人であるにもかかわらず、「見ないで」と言っているのは無責任と言えませんか、との意味) パウロはここで大胆に、はっきりと「わたしに倣う者となりなさい」と言います。私たちは3章の終わりに至るまでに、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさゆえに、」(8)それまで益であったすべてを後にし、キリストを得、さらにその復活の栄光にあずかるため、ひたむきにそれを追い求めているパウロの姿を見てきました。そのような姿に倣いなさい、と勧めるのです。
それだけではなく、パウロを模範としている者たちにも目を留めなさい、と勧めています。それは、反対に模範としてはならない人たちを警告していることにもなっています。「というのは、・・・多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(18)と、「涙ながらに」敵対して歩く人たちに対してパウロは警告を発するのです。なぜ、涙ながらに語るのでしょうか。それは、彼らが十字架の救いを無視し、嘲笑し、十字架に敵対して歩んでいるからです。彼らの最後はそのまま進めば滅びです。
かつて、チャールズ・インウードは、「罪について語れる説教者は真の説教者である。しかし地獄の説教をするには七倍の愛を要する」と言いました。沢村五郎先生は、神との絶縁の物凄い滅びの様子を、「一閃(いっせん)の光も希望もなく、一掬(いっきく)の慰めもなく、愛の温度の一度もない暗黒の世界」と講壇上で涙ながらに絶叫されました。
次に、彼らの神はその腹です。自分の欲望を神とするというのです(19)。世界にいろいろな神々がありますが、それは人間のすべての欲望を満足させるものにすぎません。
第三は、彼らの栄光はその恥です。いかにも自由を謳歌するかのように欲望を追求し、それを誇りとしていますが、実態は目を覆うばかりの恥の姿です。
第四に、彼らの思いは地上のことだけです。一瞬一瞬消えてゆく束の間の地上のことだけに思いが捕らえられ、永遠を見つめる目がないのです。
Ⅱキリスト者の栄光
パウロは続いて、喜びに満ちてこのように書いています。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることができる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(20-21)
ここには19節で「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」と言っているところからは、真逆の展開です。本物のクリスチャンの最後は滅びでなく、救いです。私たちの神は、私たちの腹ではなく、もう一度天から来て、私たちを迎え入れてくださるイエス・キリストです。私たちの人生は恥で終わりません。私たちは栄光の中に入れられるのです。私たちの思いは、地上のことでなく、天を仰ぎ望みます。天を仰ぎ、また待ち望みつつ目標に近づいていくのです。これが、世にありながらも天国市民としての特権に与った者の栄光です。本国は天、栄光の御国です。
今の世界は移民の人たちにとっては受難の時代と言えます。外国から来た人がキチンとその国の市民として受け入れられず、一時的なビザであれば不法入国者として扱われます。しかし、私たちはキリストの救いによって永遠の御国の国籍を持った者(聖霊の証しをもっている者※Ⅱコリント1:22)、地上という異国にあっても、本国の特権に与っている者たちと言えます。その本国から、主イエス・キリストが栄光の「救い主」として来られるのを待っています。キリスト再臨の待望です。栄光の救い主を待ちわびるのです。クリスマス、私たちを罪から救うお方としてベツレヘムの家畜小屋に宿られた救い主は、再び王として、また、「栄光の救い主」として来臨されるのです。「わたしたちは待ち望んで」とありますが、本国を天に持つ者として、この希望をいただいています。聖霊による確信と希望です。
その時です。キリストは、わたしたちの卑しいからだを一瞬の間に、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えてくださるのです。死んで今や御国にいる聖徒たちは、復活体に変えられ、その来臨の時まで生き残っている者は、瞬く間に、栄光の体に化せられるのです。これが、復活・栄化の福音です。これが、パウロの言う「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」なのです。パウロが後のものを忘れ、ひたむきに追い求めたものなのです。
「毛虫はう 蝶となる日を夢見つつ」と玉木愛氏は詠いましたが、私たちの最後は毛虫が蝶と生まれ変わる栄化の救いです。
(参考図書 工藤弘雄著「キリストはすべて」)
