11月16日 礼拝メッセ―ジ

メッセージ 『聖なる願望』

聖書 ピリピ人への手紙3章10-16(新p398)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

チャペルコンサート、ウエルカム礼拝共に「ワンダフル」という言葉がピッタリの恵みの時を頂きました。続いて、クリスマスを迎える準備に入ってゆきます。この時期がくると思い浮かべる物語の中にヘンリー・ヴァン・ダイクの短編小説「アルタバン物語」があります。クリスマスと言えば、「三人の博士」ですが、実はキリストのお誕生を祝う為に旅立とうとしていたもう一人の博士がいたというところからこの物語は始まります。
 「ペルシャから来た博士であるアルタバンも他の博士たちと同様に、生まれたばかりの王に会い、様々な宝物を贈るために出かけようとした。しかし、その途中で瀕死の男を助けたために一緒に行くはずだった三人の博士のキャラバンに遅れてしまった。その為アルタバンは、1人でユダヤまで旅することになり、贈り物の宝物の一つを売って旅に必要な物資を揃えた。ベツレヘムに着いた時には、イエスの一家はそこを発った後だった。そこへ、ヘロデの兵がベツレヘムの幼児を虐殺しに来たのだ。彼は、殺されようとしていた1人の子どもの為に宝物の1つを差し出した。こうして、アルタバンはイエスを探し求めて多くの国を旅し、行く先々で人を助け、33年の月日がたったが、イエスに会うことはできなかった。辿り着いたエルサレムで今まさにイエスが十字架につけられようとしていることを知ったアルタバンは、イエスを救おうとしてゴルゴダの丘へ急ぐ途中、若い女性が奴隷として売られるのを見て最後の宝物である真珠を手放してその女性を救う。その時、激しい地震が起こって瓦が頭上に落ち、死に瀕したアルタバンは、そこでイエスの声を聞いた。イエスのために何もできなかったと言うアルタバンにイエスは言った。「私はあなたに言う。あなたが私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にそれをしたのなら、あなたは私にもそれをしたのである[4]」(マタイ25:40)アルタバンは喜びの中で天に召されたのだった。」
実にアルタバンの一生はキリストを探し求め、ついにキリストを得る生涯でした。
私たちもまた、更にキリストを知りたいと、アルタバン同様の旅をしている者であるかもしれません。不思議なことには、キリストの深みを知れば知るほどこの思いは強くなってゆくのです。晩年、ローマの獄中にいた使徒パウロはその思いをピリピ教会の人たちの向けて次の様に書いています。「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10,11)と。詳訳聖書訳では、「〔私の心に堅く定めた目的は〕彼を知ることです≪だんだんと、更に深く、さらに親しく彼を知るようになり、さらに強く、さらに明白に[彼の人格の驚異を]知り、認識し、理解することです≫。またそれと同様に彼の復活からあふれてくる力〔復活が信者たちの上に及ぼす力〕を知るようになり、また彼の苦難にあずかって、絶えず変えられて、〔霊において彼のかたちに〕 彼の死〔にさえも似るように〕されることなのです。〔私の希望は〕私が、できることなら、〔この肉体にありながらも〕死者の中から〔私を引き上げる霊的な、また道徳的な〕復活に到達したいということです。」と書かれています。
続いてパウロは、「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたとはなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし・・・」(13)それを追い求めていると言うのです。これは、どういうことなのでしょう。
Ⅰ捕らえられるために捕らえられた 
「ただ捕らえようとして追及している」(12)、このように求めている背後に、「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」(12)とパウロは言っています。
Ⅱこの一時をつとめる
次にスポーツランナーに例えて、「その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」(14)と言っています。神の賞与、それは、キリストの死と復活、栄化の望みです(10,11節)。パウロは、神の賞与を得る「ただ一つのこと」、この目標に向かって、ゴールを目指して走るように走っていると言います。その為に「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、」(13)走る。ここでの後ろのものを忘れるとは、赦された罪を思い起こし、悔やむことや過去の業績に浸ることからもキッパリ離れることを意味しています。
  Ⅲ到達からの前進
 そこでパウロは、「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう」(14)と、大人のクリスチャンの姿を引き合いに出しています。大人は、むしろ、自分はまだ不完全で、未成熟であるという自覚をもっていて、完成されたいと更に求めようとします。パウロは最高の恩恵を飽くなく追い求めることの極意、食べ物でいうならば、極上の食事を与えようとして、求めることのすばらしさを暗に勧めているのです。切望した経験がある人は、その時こそ自分の心が充実していて輝いていたことを知っています。
しかもパウロは自分の考えを決して押し付けません。成熟した人は他者との違いについても汲々とすることなく、「もしも、・・・何か違う考え方をしているなら、そのことも神が・・・明らかにしてくださいます。」(15)と、神にそれら一切をゆだね、「私たちは到達したところを基準にして進むべきです」(16)と言うのです。

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