10月19日 礼拝メッセージ

メッセージ 『神に用いられた人たち』

聖書 ピリピ人への手紙2章19-30節(新p397)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

「ローマの獄中にあるパウロにとって、信頼できるキリスト者が二人いた。一人はパウロの身のまわりの世話をしているテモテ、もう一人はピリピ教会からの援助金を携えてローマに派遣されて来たエパフロデトである。パウロは自分の代わりにテモテをピリピ教会に遣わしたいと願い、エパフロデトもピリピに帰そうとしている。」 (新聖書講解シリーズ8p220)

Ⅰ テモテの模範(2:19-24)

パウロは2章4節で「他の人のことも顧みなさい」と言い、ここでも「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(21)と言っています。にも拘わらず「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」(20)と、テモテが如何に真実な働き人であるかを強調しています。

それだけでなく、 「しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。」(22)と、当時、テモテの働きぶりは周りにも広く知られていたことと、パウロ自身に対しても、「子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。」(22)と彼を推奨するのです。ここで、「福音のために奉仕してきました。」(22)とパウロ自身があえて言っているのは、テモテが老人の自分と歩調を合わせながら忠実に仕えてくれているのは、他でもない、テモテはパウロを通して福音に仕えているのであるということをキッパリと人々に証ししているのです。ここに、テモテの内実をみることができます。

Ⅱ 福音に命をかけたエパフロデト

 「エパフロデトはピリピ教会の指導者の一人であったが、ローマで獄中生活をしているパウロに仕えたいと願い、正式に教会から遣わされてローマに行き(4:18)、そこでパウロに仕えた(2:39)。その後、この手紙を託されてピリピ教会に届けたのも彼である。」(〃p223) と、新聖書講解シリーズ8には書いています。

パウロはエパフロデトを「私の兄弟」(25)と呼びました。「兄弟」とは、同じ父母を持ち、血を分け合っている者です。キリスト者はキリストの十字架の血によって罪を赦され、同じ父なる神の前に子とされている者たちです。その意味でキリスト者はお互いに兄弟姉妹と呼び合います。エパフロデトは、キリストにあってパウロを兄のように思い、彼に対して弟のように仕えていたと思われます。次にパウロは彼を福音のために働く「同労者」であると言います。それは丁度登山家が、目指す頂点の目的に向かって共に汗を流して労する人を指しています。それほどエパフロデトの協力の姿勢は真実であったと思われます。さらに、彼は福音宣教のための戦いに、苦しみを分かち合い「戦友」としてパウロに仕えました。実にエパフロデトは、使徒パウロにとっての「兄弟」「同労者」「戦友」でした。

では、その結果、彼はどうなったのでしょう。「死ぬほどの病気」(27)になったのです。彼は死ぬほどになりながらも、キリストの福音のために、パウロの兄弟、同労者、戦友として、パウロと共に苦しみを分かちあいました。それほどまでに彼を駆り立てたものは何だったのでしょうか。それは、エパフロデトを神の救いにあずからせたイエス・キリストの福音以外の何ものでもありません。

そうした中、25節でパウロは「あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロデトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。」と書いています。病気になったことを(治ってはいても)気にしているエパフロデトを思いやりつつも、ローマの気候が合わないかもしれないというパウロの深い配慮もあっただろうと思われるところですが、ここでパウロは「あなたがたの使者」という言葉を使っています。「使者」は原語では「使徒」と同じで「使わされた者」を意味します。パウロは、彼は決してローマの生活に耐えかねて帰るのではなく、彼が十分な働きをした器でことを告げ(2:26,27,30)、「また、彼のような人たちを尊敬しなさい。」(29)とまで書き、ピリピ教会に人たちにエパフロデトを激賞したのでした。

「彼こそまさにキリストのわざのために命をかけて働いた使者だったのです(30)。この命を『かけ』(パラポリュウサメノス)ということばは賭博用語です。勝てば全部を獲得し、負ければ一切を失う。エパフロデトはキリストのわざのために命までかけたのです。

 ある方は、信仰はかけに通じると言いました。キリストを信じるということは「キリストにかける」とも言うことができます。十字架と復活により、キリストは必ず罪を赦してくださる。絶対永遠の命を与えてくださると信仰をもってかけるのです。そして罪の赦しや心のきよめを感謝し、栄光の復活を確信して、時も財も身もかけるのです。もしかけが外れたら一切を失います。しかしかけが本当だったら、かけたものが大きければ大きいほど大儲けをするのです。実にエパフロデトは命までもかけたのです。」 工藤弘雄著「キリストはすべて」p60

  神は今日も、福音の戦いのために命を賭けて働く者を求めておられます。

参考図書 工藤弘雄著「キリストはすべて」/新聖書講解シリーズ 8 いのちのことば社

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