7月27日 礼拝メッセージ


メッセージ 『キリストにとどまる』

聖書 ヨハネの福音書15章1-11節(新p215)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章のぶどうの木のたとえから、豊かに実を結ぶ人生の秘訣を話されました。

1.キリストにとどまる
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)
  ここで、イエス・キリストは、人生の良き実が結ばれる秘訣は、キリストにとどまることだ、と言われています。「とどまる」ということばは、「滞在する」とも訳されることばで、滞在するとは、暫くそこに留まって、親しく語ったり、食事をしたりして一緒に時を過ごすことを意味しています。ですから、イエス・キリストと親しい交わりをもっている人、即ち、み言葉を聞き、主の晩餐(聖餐)の恵みを受け、祈りの時をもっている人はやがて豊な良き実が結ばれてゆくことでしょう。
 エペソ人への手紙2:8,9「この恵みにゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」このみ言葉の如く、信仰によって救われた私たちは、ただ、信仰によって、キリストにとどまり続けます。行いは私たちの肉で造り上げてゆくものですが、救いの実は、キリストから来るものを待つことしかできません。私たちが、キリストを信じる信仰によってキリストにとどまり続けるとき、キリストから流れ出てくる樹液により、自ずと、キリストの実が結ばれてゆきます。私たちにできることは、キリストのうちにとどまって、ただ、実が結ばれる時を待つことしかできません。
<参考/「とどまる」の原語「メノウ」は、「留まる、離れないでいる、滞在する、宿る」という意味があります。英語では「abide」が使われていて、「ずっと住み続ける」という意味があります。>

2.みことばにとどまる
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(15:7)
信仰生活は自己反省に明け暮れて、一方通行で終わってしまうようなものではありません。私たちは、父子聖霊の三位の神と顔と顔を合わせるように日々共に過ごしています。祈祷を通して、現実に何ごとでも話せば答えてくださる方であることを知ることができます。天地万有を創造されたお方が、「何でも求めなさい」と言ってくださっているのです。
イエス・キリストは、生ける神のことばとして、2000年前に地上に来てくださり、人類の罪の為に十字架に架かって死なんでくださり、三日目に甦られて、今も生きておられて、力あるみ言の矢を、心の思いやはかりごとの中に放たれて、一人一人の真の必要に応えてくださいます。「神のことばは生きていて、力があり、諸刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)

3.神の愛にとどまる
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(15:9)
 元聖ルカ病院の故日野原重明氏は、生前、小学校を訪問し子どもたちに「いのちの大切さ」についてお話ししてこられたそうです。その時、「君たちのいのちはどこにあるの?」と質問をしたところ、ある子どもは心臓を指さして、「ここにある」と言う。そこで先生は、「これはモーターで心臓にいのちがあるわけではないよ。いのちとは、君たちがもっている時間のことだよ。それをどう使っているかが問題なんだよ」と答えられたということです。
 イエス様は15章13節で、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と、言われました。神の愛にとどまって生きるということについて、考えてみたいものです。
 (ルカ10:30-37 良きサマリア人のたとえ)

  キリストにとどまり、みことばにとどまり、神の愛にとどまる、お一人おひとりの上に、豊かな人生の結実を!と、祈ります。

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