メッセージ 『苦しみもまた神の恵み』
聖書 ピリピ人への手紙 1章27-30節(新p395)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
21節でパウロは、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」と、福音に生きることの至福を語った後、福音にふさわしい生活、戦い、苦しみについて語ります。
1)福音による生き方(27)
「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。」(27a)
パウロは、これまで書いてきたことを踏まえながら、新しい勧めをしています。最初の「ただ」(27)は、新共同訳では「ひたすら」。「福音にふさわしく」とは福音に「符節を合し」ピッタリと一つとなること。福音が全く板に着いた、イエス様に丸ごと生きていただく楽しくも自由な生活です。「生活」(ポリテユ―エセス)は3章20節では「国籍」と訳されています。
クリスチャンは主イエス・キリストのみ国の国民なので、パウロは、当時、ローマの植民地であったピリピの信徒に、ローマ市民ではなく、福音の恵みを受けた天国市民として、福音にふさわしい生活をすることを願い勧めています。
2)福音と戦い(27b,28)
「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともにたたかっていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」(27b、28)
クリスチャンの生涯には様々な形で信仰の戦いがあります。使徒パウロもまた、コリント人への手紙第二で、「マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。」(7:2)と言っています。パウロは外からは迫害があり、内からは、純真な福音を守る闘いが常にありました。悪魔は、戦争状態であっても、平和な中にあっても、虎視眈々とキリスト者の信仰が崩され、交わりが絶たれること(教会の分裂等)を狙っています。けれどみ国の民は、福音により
一つとなり、戦いがなくなるのでなく、戦いの中で神の勝利を体験してゆきます。
パウロは、27節前半で、「ただ福音にふさわしく生活しなさい」「そうすれば」と、福音にふさわしく生活することと福音の戦いの勝利を結びつけて、「どんなことがあっても反対者たちに脅かされることはない。」(28)と確信を伝えます。一人一人が福音にふさわしく生活する時、おのずと、霊的に一つになり、信仰に堅く立って心も一つにされてゆくその様は、反対者にとっては「滅びのしるし」となり、心を一つにしている者たちには、「救い」のしるしとされるとパウロは言うのです。結果、福音の為に奮闘し、さらに反対者によって狼狽させられていないピリピ教会のニュースを必ず耳にすることができると、パウロは確信するのです。このような、霊と心の一致は、神の霊から来るもので、決して人のわざでは出来ません。
3)福音と苦しみ(29)
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(29)
「キリストのために受けた恵み」ということばは、ローマ8章32節、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」、ここでの「恵み」と同じことばです。神から受けた恵みは、信じるだけではなく、キリストのために苦しむこともまた恵みであり、賜物であるとパウロは語ります
私たちは神からの賜物である信仰をいただきその結果、罪のゆるしや心のきよめ、永遠の命という驚くばかりの恵みをいただきました。それと同じように、私たちはもう一つの賜物である「キリストのために苦しむ」ことをいただいたのです。
キリスト者とキリストの十字架を切り離すことはできません。クリスチャンは三つの角度から十字架の恵みを知るのです。第一は私の身代わりの十字架。第二は私も共につけられている十字架。第三は私が負うべき十字架です。
ポーロ・リースは、「神の恵みによって私たちの特権となるものが2つある。すなわち、キリストを自分の救い主として受け入れる信頼(信仰)と、苦しみの学校によって鍛えられる試練である。」と言いました。試練もまた恵みであると受け取ることができる幸いもあります。