5月4日 主日礼拝メッセージ

メッセージ「聖日を尊ぶ者への祝福」

聖書 イザヤ書58章13-14節(旧p1267)

メッセンジャー 高江洲伸子 牧師

キリスト教の礼拝とは何なのか?一般的日本人に持っている認識は、礼拝堂で讃美歌を歌ったり、牧師から聖書の話しを聞いているイメージを抱いていることが多いでしょう。けれど、礼拝についての意味やその祝福については、クリスチャンであっても知らないことや理解していなかったこともあるかもしれません。「礼拝」について、その根本的意味について、「キリスト教礼拝・礼拝学事典」(日本キリスト教出版局)から学んでみました。

キリスト教礼拝の項    
「キリスト教礼拝とは『イエス・キリスト』を中心として行われる、神と神の民の公かつ共同の、出会いと交わりの出来事」である。
  「神と神の民の間に成立するあらゆる関係においてその究極的な主導権は神のもとにある。礼拝が成立する根拠もまた先行する神の恵みに由来するものであり、人間の応答は神の招きを前提とする。しかしこのような招きは同時に人間の側から主体的な参与を期待しそれを引き起こす愛のわざでもある。それゆえにキリスト教礼拝とはつねに神と神の民との真実かつ自由な愛の交わりとして成立する出来事なのである。」p377-388
「礼拝が出会いと交わりであるということはそこに『神から人へ』と『人から神へ』という2つの側面もしくは2つの動きが含まれていることを意味する。さらにこれらに加えて『神のもとにおける人間同士の交わり』という要素をキリスト教礼拝における第三の派生的な側面もしくは動きとしてとらえることもできよう。こうした2つないし3つの側面もしくは礼拝における具体的な営みの中に反映される。すなわち礼拝への招き、聖書朗読、説教、信仰告白、奉献(献金)、サクラメントへの参与などに、そして第三は執り成しの祈り(共同祈祷)や平和の挨拶のサクラメントにおける交わりなどに表現されると言えよう。
 さらにこの出会いと交わりが公かつ共同の出来事であるということは、キリスト教礼拝が神の民全体によって造り上げられる信仰共同体の行為であって、個人的な信心や修行、内面的な敬神行為にとどまるものではないことを意味している。それは礼拝におけるひとりひとりの意志や敬虔を否定するということではない。真実のキリスト教礼拝は主にある愛の交わりの中で個々人の存在を掛け替えのものとして受け入れあいながら、すべての会衆がひとつとなってキリストの体である教会を形作ることをめざすのである。」p388
(わかりやすい解説を加える)

礼拝、私の場合
 「私が初めてキリスト教の礼拝に出席したのは12才の時でした。非常にオーソドックスな、創立75周年を迎える田舎の大きな教会でした。説教はあまり理解できませんでしたが、そこにいるだけで平安がありました。15才で受洗。しかし、神様がおられるという実感がもてないことで躓き、カトリックの教会に行ってみましたが、そこでは、儀式と形ばかりのように思えて、さらに神様がおられるという実感が得られませんでした。また、違うプロテスタントの教会にも行ってみました。そこもまた、建物ばかりが教会で中味が無いように思えました。そのような中で、私は自分が所属している教会で神様に出会っていたということに気がつきました。「臨在」ということばをまだ聞いたことがありませんでしたが、同じ礼拝をささげていてもそこには「臨在」があったことに気がついたのです。礼拝から離れたくないのは、礼拝の中で語られる神のことばと主の臨在の故であったことに気が付きました。主のみことばと濃きめぐみの中から新たな一週間への一歩を踏み出すのは、まるで、新雪を踏む思いで、世の何物をもっても変えることのできないものであったことに気がついたのです。私にとっての主日礼拝は決して義務でなく、生きる為の糧なのです。
イザヤ書58:13-14から
ここには、主の日を重んじる者への祝福が描かれています。この箇所から北海道空知太(そらちぶと)栄光キリスト教会の銘形秀則牧師は次のように言っています。「私が育った教会は、聖日(日曜日)は『礼拝厳守』とし、『今日も礼拝を守れたことを感謝します』」と祈る教会でした。いわば、礼拝を守るということが聖日なのだという意識になっていました。しかし後に、聖日(安息日)とは、神の救いを楽しむセレブレーション(祝祭)なのだという意識に変えられました。もっと自由に礼拝を楽しむという視点から礼拝について考え始めると、礼拝の流れ(プログラム)にも、賛美の流れや内容にも、また礼拝後の過ごし方にも自由さが与えられました。厳守という束縛的な意識から自由になったのです。礼拝は厳守してそれで満足していることではなく、神とのかかわりを最大限に楽しむことなのです。その「楽しみ感」がない礼拝は、どこかでズレています。「御国」における永遠の世界での礼拝の基調は「喜びと楽しみ」です。イザヤ書58章にもそのことが強調されているように思います。『安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊ぶ・・とき、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。』とあります。自分の好むことを求めず、むだ口を慎み、主を何よりも喜びとすることこそ真の礼拝であり、真の断食なのだと信じます。」 聖日、主に呼ばれた者たちは共に喜びつつ御前に集い、神を喜ぶ喜びで一つとされる。実に、神様からの祝福は神の喜びに与ることと言えます。

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