『慰めの器バルナバ』
聖書:使徒の働き9章23-31節(新p251)
メッセンジャー:高江洲伸子師
イエス様のお弟子は、一人一人が個性溢れる人たちでした。使徒行伝でも様々な器が発掘され、主の御用の為に用いられてゆきました。パウロはその最たる器と言えるでしょう。パウロの洗礼の為にアナニアが用いられましたが、パウロが宣教者として用いられる為の道備えとなった人にバルナバがいます。
バルナバは使徒の働き4章36,37節で初めて名前が出て来ました。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」。ペンテコステで聖霊が降り、聖霊によって福音宣教が力強くなされるさ中、バルナバの存在は際立つものがあったと思われます。
受洗後のパウロは、ユダヤ人からは命が狙われ、クリスチャンの人たちからも恐れられてすぐには仲間に入れてもらえませんでした(23-26節)。「しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。」(27)と記されている如く、教会の人たちとパウロの良き仲介者となりました。
11章20節からアンティオキア教会のことが記されています。「ところが彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシャ語を話す人たちにも話しかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。」(20-22)。ステパノの殉教以後、迫害の厳しくなったエルサレムを離れた人たちを通して、アンティオキアに宣教の輪ができ自然にできた教会が、アンティオキア教会でした。そして、そのことを耳にして遣わされていったのがバルナバでした。「バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」(23-24)と記されています。多くに人の信任を得て彼は異邦の地に新設された教会の人たちにもまた良き信仰の希望と慰めを与えていったのです。その時、故郷タルソに帰っていたパウロを捜してアンティオキア教会に連れてきたのでした。
現代においても、「アンテオケ宣教会」と言えば海外宣教の為の団体を指しています。初代教会にとって、アンティオキア教会は、その時代の宣教センターのような働きをしていていったのでした。そこには、「ニゲルと呼ばれるシメオン」もいたことが記されていますが、このシメオンは、ローマ兵によってイエス様の十字架を無理やり負わされた「クレネとシモン」と同一人物と言われている人です。
このアンティオキア教会から、パウロとバルナバの伝道旅行がスタート致します。第一回目の伝道旅行の際、「彼らはヨハネも助手として連れていた。」(13:4)と記されていますが、このヨハネはマルコの福音書を書いたマルコのことです。(ヨハネはへブル読み、マルコはラテン語読み。ギリシャ語ではマルコス)。バルナバとはいとこの関係です。マルコの母の家の2階の部屋にペンテコステの聖霊は降り、そこに世界で一番目のキリスト教会が誕生致しました。エルサレム教会の起こりです。マルコによる福音書の中で、イエス様が捕縛される際、「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」と14章51,52節に自ら記していますが、実際そのような、気の弱い一面をもっていたのです。けれども、裕福な家庭で育ち、しっかりと学問にも精通していた有能な青年であったことは確かで、第一伝道旅行で助手として同行したものの、彼は怖れて途中で帰ることになり、パウロの不興を買うことになりました。けれども、バルナバは彼を見捨てることなく、熱いとりなしで彼を甦らせます。後年、パウロ自身、ローマの獄中から、「彼は役にたつ」と敢えてマルコを呼んでいます。パウロにおいてもそうでしたが、語学ができないペテロの速記者としても用いられて、マルコの福音書は、ペテロが口述したものをマルコが書きとめたとされています。
バプテスマのヨハネはイエスの到来を告げる道備えとされました。御子の到来以前から、ヨハネ集団は当時ユダヤ社会にとって、宗教的感化を人々に与えている最大のものでした。ガリラヤの寒村からイエス・キリストの小集団が出現しても、バプテスマのヨハネ派の威力には恐らく足もとにも及ばないものでした。けれど、バプテスマのヨハネは、人々がどんなに自分を祭り上げても、決して、自分の立場を見失うことはありませんでした。「私の後に来られる方は私よりも力ある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。」(マタイ3:11)。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と自らの使命と立場において分を超える言動はなく、彼はただキリストを差し示しながら殉教してゆきました。