『選びの器』
聖書:使徒の働き9章10-19(前半)節(新p250)
メッセンジャー:高江洲伸子師
具体的な聖書の預言と神の召し
パウロを語るに先だって、思うことは、聖書はやはり不思議な書物である、ということです。と言うのは、紀元前700年頃、北イスラエル王国が陥落。やがて、紀元前560年頃、南ユダ王国もまた当時強国だったバビロン王国に捕囚民として連れて行かれ、南北共にイスラエルが完全崩壊しました。神様はこうした国の興亡について、預言者イザヤを通して、「わたしはわが受膏者クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、・・・」(口語訳イザヤ書45章1節)さらに、「青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り」と語られる中、「その受膏者クロス」(口語訳45章2節)と、用いられる人物の名前まで明言されて、語られた通りに、ペルシャ王国をバビロン王国を遥かに超える巨大な国にして、クロスという名の王様を本当に出現させ、時が満ちて、主がお約束くださった通りにそのクロス王を通してユダヤ人をバビロン捕囚からの解放に至らせました。
それから、500年程経過して、使徒パウロが天からの強い光と御声によって回心に至った時にも同様に、「彼は、幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」(9:12)と、非常に具体的に、アナニアを名指して啓示されているのです。アナニアに告げられた時には、神様はすでにパウロに語っておられた経緯の中にありましたが、アナニア自身は非常に躊躇して、「主よ、私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」(9:13,14)と応答。けれども、主は恐れるアナニアに、大胆に力強く、「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(9:15)と命じました。
宣教者への召し
福音書でイエス様が宣教者として選ばれた人たちは、漁師のペテロをはじめ、学問的に博学という方々ばかりではありません。けれども、一人一人の召しと賜物に合った分野で主の御用は成されました。けれども、ここで主が選ばれたパウロという器は、律法の専門家であり、語学においても、ヘブル語は勿論、ギリシャ語も話せるだけでなく、ローマの市民権まで有する国際的にも十分に用いられるに足る備えられた器でした。けれど、使徒の働き9章に登場するパウロは、天からの光を受け、その光で目に障害を来しているパウロでした。それだけでなく、「なぜ私を迫害するのか」との御声を聴き、かなりの衝撃を受けているものの、恐らくキリスト教について見極めできる状況ではなかったと思います。そこで、彼を正しく導くナビゲーターである宣教者が必要だったのです。その神様からの白羽の矢が当たったのがアナニアでした。パウロは、アナニアによって、イエス・キリストこそ真のメシアであるという確信をしっかり抱くに至り、バプテスマに至るのです。
その時の状況を使徒行伝22章で、パウロ自身が次のように証言しています。
(アナニア)が「私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ、再び見えるようになりなさい』と言いました。するとそのとき、私はその人が見えるようになりました。彼はこう言いました。『私たちの父母の神は、あなたが御心を知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。さあ、何をためらっているのですか、立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』」(22:13-16)
9章では、その時パウロに語ったアナニアの言葉とパウロの状況について次のように記しています。「『兄弟サウロ。あなあたが来る途中であなたに現われた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロは目から鱗のような物が落ちて。目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。」(9:17-19)と。
<補記 アナニアの個人伝道方法>
アナニアの個人伝道方法について、バックストン師は次のように記しています。1.神様と親しい交わりをもっている。(10) 2.神様の導きに従う。(11) 3.どんなに大きな罪を犯した人でも救われる信仰をもっている。(17) 4,大胆に行く。(17) 5.愛をもって行くこと。(17) 6.今その人が聖霊に満たされるということを信ずる信仰をもっている。(17)
さいごに、まさに、パウロは、主がアナニアに語られた通りの「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、」「主の選びの器」だったのです。そして、「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」(9:16)と、主が語られた通りの主の備えられた苦難の道を歩み始めることになります。確かに、そこにはこの世の栄誉はありませんが、神の光栄ある生涯だったのです。使徒の働き20:24ここに、やがて訪れる幽閉生活を前にした彼の胸の内を知ることができます。