2025年1月1日 元旦礼拝メッセージ

『土の器』

聖書:コリント人への手紙第二4章7-18節(新p359)

メッセンジャー:高江洲伸子師

元旦礼拝 「土の器」Ⅱコリント4:7-18 -5:10 (エレミヤ書18章)
 岡山県の備前市で私は生まれ育ちました。備前焼きの土が田んぼから掘り出されると言うだけで、お金持ちになた人もいます。陶器師の手でろくろが回されるとき、陶器師の思いが一ミリたりとも逸れないように、用いられる土は細かく砕かれていなければなりません。ですから、備前焼の土は細かければ細かいほど価値があります。陶器師の手に握られた土くれがまるで生き物のように、器が作られてゆく様は見事です。よく、クリスチャンが神様の御手の中で神の器として造られてゆくことに譬えられる所以です。
 旧約聖書にでてくる預言者エレミヤは、ある時神様から陶器師の家に行くように命じられます。エレミヤ18:1-6 p1323 ここを見れば、神様はいつでも必要に応じて自由に器を作られることを知ることができます。
 新約聖書に出て来る使徒パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。(7)と言いました。通常宝物を叩けば壊れるような土の器に入れることはしません。いとも簡単に器が壊されて宝物がこぼれ出たら大変です。しかし、ここでは、「この宝を土の器の中に入れています」と言っています。なぜでしょうか。(ここで、発想の転換が必要になってきますが、)それは、容器が質素なものであればあるほどその輝きは宝から出ているものであると判別できるからです。私たちキリスト者は神の栄光を表わす器として選ばれた者たちですが、その人の持つ賢さや人間性が俄然光を放ったとしても、所詮それはその人の栄光であって、神の栄光を表わす光ではないのです。ですから、使徒パウロは、「神に選ばれたキリスト者である私たちは、土の器であって、外見はもろく壊れやすい。けれど、宝であるイエス・キリストをこの土の器の中にもっている者たちである」と、言うのです。
そしてパウロは、「イエス・キリスト、この宝を内に持つ人は、苦しめられない、途方にくれない、迫害されない、倒されない」等とは言わず、「四方八方から苦しめらますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが滅びません。」(8,9)、と言っています。それは、パウロ自身、苦しめられ、途方にくれ、迫害され、倒されることを常々体験してきているゆえにでてきた言葉と言えます。普通に生きていても戦いはありますが、クリスチャンになってからはキリストの苦しみを共に負っていので、パウロは諸教会の兄姉に事あるごとに励ましの手紙を書いたのです。あえて苦しみをつくる必要は全くありませんが、キリストに結ばれているかぎり、キリストと同じ足跡を歩むはずなのです。けれども、大丈夫、と、パウロは励ましています。
 なぜなら、イエスの死を身に帯びている私たちは、その苦しみを通して「イエスのいのちが私たちの身に現われるため」(10-12)と、パウロは言います。これは、キリストに結ばれた私たちは、キリストの死とよみがえりとの交わりの中に入れられているという教えです。ピリピ人への手紙においても、パウロはこうも言いました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)」と。
そしてキリストのよみがえりは、今生きている私たちのうちに働くというだけではなく、将来の希望でもあるのです。なぜなら、「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」(13-15)。このよみがえりにある神の恵みによって、私たちに感謝が満ちあふれます。感謝が満ちあふれると、そのときに神の栄光が現われるようになります。
  「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(16) 「私たちは勇気を失いません。」(新改訳3版)キリストとの交わり、キリストへの希望、これがキリスト者にとって本質的なことなのです。
  「一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(17) 「一時の軽い苦悩」とパウロは言っていますが、11章:23-28節にパウロが受けた患難が記されています。これがパウロの言っている軽い患難なのです。なぜそのように言えるのでしょうか。彼は、将来の永遠の栄光と、今の患難を秤にかけると、今の苦悩は比較にならないほど軽いとしています。将来の希望があまりにも凄く、測り知れないので、患難の中にあっても勇気を失わないでいることができるのとパうロは言っているのです。私たちの問題は、患難を耐えることができない、ということではなくて、本当の問題は、将来の希望をきちんと見ていないことにあると言えます。
それ故、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(18) 今私たちはどこを見て歩んでいるでしょうか。私たちは、土の器の中に神の栄光を持っていますが、器は時とともに朽ちて衰えます。欠けてゆきます。病や人生の苦しみで器は滅びてゆくものです。けれど、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(16)実に神の力、また輝きは、
弱いときにこそ一層力を表わし、輝くのです。

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