12月1日第一アドベント礼拝メッセージ

『不信のザカリヤ、戸惑うマリア』

聖書:ルカの福音書1章26-38節(新p107)

メッセンジャー:高江洲伸子師

「信じる」ということばをPCで検索したところ、「本当だと思いこむこと。」と出てきました。私たち人間は、ある時は「本当だ」と思い、また、「そうでもないかもしれない」と信じることと、疑うことの間を行きつ戻りつしながら生きています。第一アドベントの今朝の礼拝は、天使のみ告げを受けた祭司ザカリヤとマリアの「不信」と「戸惑い」の心の様相から、神様を信じる心へと更に一歩近づかせて頂きましょう。

不信のザカリヤ
今日からアドベント(待降節)です。世界中のキリスト者が心を備えて御子の御降誕を待ち望みます。2000年前のこの頃、クリスマスの良き訪れを告げる天使は、(イエス・キリストの母となった)マリアより半年早く、(後に、「荒野で叫ぶ声」として登場するヨハネの両親となった)祭司ザカリヤに現れました。天使が現れた時ザカリヤは、祭壇で祭司の務めをしている時でした。その時のザカリヤの様子を、ルカは、「これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。」(12)と記しています。取り乱し、恐怖に襲われるザカリヤに天使は告げます。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」(13)。そして天使は、ヨハネに対する神様からの大切な使命について語っています。けれどもザカリヤ夫婦は、高齢になっても子どもが授からないカップルでしたから、この天使のお告げはとても信じることができなかったようです。
ザカリヤの返答、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」(18)。この時の「そのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。」は、とても柔らかく尋ねているようにも見えますが、天使は、直言しています。「その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかった」(20)と。彼はこの時、不信仰の報酬として、「これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。」(20)と宣告されます。そして、その言葉の通りになり、エリサベツ夫人がヨハネを出産するまで話しができなくなります。
人間関係でも不信を抱いた相手には猜疑心が強められ、言葉も辛らつになってゆきやすくなるように、私たちキリスト者もまた、神様への信仰を失う時、主を褒めたたえることばが消えてゆき、つぶやきや不満、周りの人たちや神様に対しても辛らつな思いを抱き、不信仰のことばで心もことばも満ちてゆき信仰のことばが話せなくなります。

戸惑うマリア
ザカリヤ夫人のエリサベツが懐妊して半年後、み使いガブリエルが「神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町」(26)に住む、乙女マリアのもとを訪れて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と御声を掛けました。この時マリアは、「このことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考えこんだ(口語/思いめぐらしていた)。」(29)のでした。マリアは慎重に主から届けられた言葉を受け止めています。
マリアはここで、ひどく戸惑って、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。」(32)に対して、「どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(34)と答えています。これは、ザカリヤが言った、「そのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。」とよく似ているようにも見えますが、実質は全くちがった「どうして」です。人間は外見やことばの丁寧さに注意を払い外側だけで判断しますが、神様は私たちが話している心の動機に注意を払われます。天使はここでは、「あなたが信じなかった」とは言っていません。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖な者、神の子と呼ばれます。」(35)「神にとって不可能なことは何もありません。」(37)と、信仰による解釈を加えます。
それは、聖霊によるものであると天使はマリアに説明しましたが、ローマ人への手紙4章17,18節には「彼はこの神、すなわち、死人を生かし無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われている通り、多くの国民の父となったのである。」(口語訳)とも書かれています。聖霊が働かれると、信じる力もまた強くされます。
神学生の頃のことです。荻窪栄光教会の森山諭先生が授業に来られ、チャペルの御用をして下さいました。先生はメッセージの中で、韓国の児童福祉施設木浦(もっぽ)共生園で井戸を掘っているが、水が出るように祈って欲しいとアピールされました。私たち神学生は信仰と思いを一つにして祈りました。私も祈りました。祈りの中で、心の中に37節のみことばが浮かんでました。その時、「そうだ、人にはできなくても、ご聖霊がされるのだ」という確信のようなものが与えられました。一か月ほどが過ぎて、水が出た知らせを受けたのです。無から有を呼び出す聖霊は、マリアの胎に御子をお宿しなさられ、木浦共生園の井戸からも水が出されたのです。
結果、マリアは、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)とみ使いに答えました。このマリアの信仰の姿勢に倣うアドベントとされますように。

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