10月20日礼拝メッセージ

『様々な出来事の中に神がおられる』

聖書: 使徒の働き4章32節-5章5節(新p240)

メッセンジャー:高江洲伸子師

先週は、ペンテコステ以後成された最初の奇跡の記事から聖霊と信仰により御業が起こることを知りました。何十年も美しの門の側で物乞いをしていた、立つことも、歩くこともできない人がイエス・キリストの名によって、「踊り上がって立ち、歩き出した。」(3:8)姿を見た人々は、「ものも言えないほど驚いた。」(3:10)のでした。

宣教者ペテロはこの出来事を通して、更に人々に語りかけます。「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で。このとおり完全なからだにしたのです。」(3:16)と。けれど、イエス様を十字架につけた祭司たちやサドカイ人がこのことを黙ってみていることはできません。ペテロとヨハネは捕られて留置場に入れられてしまいます。「しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。」(4:4)のです。聖霊によって変貌されたペテロの姿をここに見ます。そして、このような迫害の中で宣教拡大していく様を如実に見ることができます。
ペテロとヨハネは迫害を受けながら、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちに救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(12)と、止められても止めれても止めることのできない宣教の炎に揺り動かされている姿に、人々は、「ペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。そして、癒された人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。」(13)そして、彼らを抑え込もうとしている祭司やサドカイ人でさえ、「あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、・・・われわれはそれを否定しようもない。」(16)と言うのです。
こうした中で、ペテロとヨハネは「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」(19)と屈せず「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。」(29)と、更に積極的に宣教に乗り出していくのです。こうした中で初代教会は、「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(31)のでした。

バルナバ
32節から35節には原始キリスト教会のうるわしい様子が具体的に描かれています。聖霊によって、心と思いが一つになる時、「すべてを共有」(4:32)することができました。。経済格差の激しい現代人においては、考えられない理想郷のような世界です。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(4:36,37)と書かれています。実質的なバルナバの献身の証です。全てを主の御手にお献げしたバルナバは、使徒の働きの中で、パウロの救いと宣教の為に用いられ、マルコの福音書を書いた甥のマルコを支援し、慰めの子として使徒たちの働きの為に豊かに用いられます。

アナニアとサッピラ
けれど、聖霊が働くところにサタンもまた動き始めます。続く記事は、祝福の真っ只中にあっても(いえ、祝福のただ中でこそ)共に注意しなければならない人間の弱さに警告を発します。5章で登場するアナニアという人は、「妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のためにとっておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(1)と書かれています。彼らについて、バックストン師は次のように記しています。「アナニアは道徳に関する罪を犯してはいません。かえって教会を助け、貧しい人に金を施し、慈善の心を示しました。そのように多くの金を寄付しましたから、これは聖霊の働きではないでしょうか、否、これはサタンの働きでした。3節でペテロは、見極める目を持っていましたから、この献身を見抜くことができました。この多くの寄付金は聖霊のお働きではなく、サタンの働きによって行ったものである。」と。「4章36節から37節を見ると、聖霊に感じた献身者が書かれています。これが真の献身です。しかし真のものがあると、サタンはいつでもその真似をします。」とも書かれています。
売った土地のお金を献げるアナニアにペテロは告げます。「アナニア、なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(4)。(※この根拠を5章8節に見ることができます。彼らが売り上げた一部をもって全部と言ったところに嘘があり、彼らは真実な献身者を装い、神を欺いたのです。)
神様の御前にささげる祈り、さんび、奉仕、言動の一切を主は知っておられます。アナニア、サッピラ夫妻は、人の前には何らやましいものもなく、むしろ他の人たちよりも良き行いをしていたでしょう。けれど、神の名のもとで自分の名利を得ようとすることを私たちは恐れなければなりません。常に信仰生活は、「愛からか欲からか」その出所が問われます。

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