9月29日礼拝メッセージ

『良き知らせ!』

聖書:使徒の働き2章37-42節(新p236)

メッセンジャー:高江洲伸子師

使徒の働き1章のテーマは「聖霊の働き」、2章は「教会の誕生」です。イエス・キリストは、復活されてから天に昇られましたが、その働きは聖霊によって依然として続きます。イエスは弟子たちに、父なる神の約束があるから、エルサレムで待っていなさいと命じられました。そして、こう言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)この約束は、使徒行伝2章から始まって、最後の章に至って実現されます。実に、この使徒行伝という書物は、このイエスのみことばがいかに実現されていくかの記録の書なのです。
 2章においては、集まっている弟子たちの上に聖霊が降られる記事を読みます。それから、使徒ペテロの説教によって多くの人々がイエスを信じ、教会が始まりました。この2章に、教会が誕生した出来事が描かれているのです。ですから、私たちは、この2章を読むことによって、教会とは何かを知ることができます。<ネット「ロゴス・ミニストリー」から>

2章分解  (Ⅰ)1-13聖霊降誕の記事  (Ⅱ)14-39ペテロの説教
ペテロは御霊によって力強く人々に主を証ししています。
最初の説教(14-36)。このペテロの説教で心を刺された人たちが「私たちはどうしたら良いでしょうか」(37)と尋ねたことへの答えとして、38-39節の説教はなされいます。
「そこでペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」(38)。 39節は聖霊についての説明へと続きます。
38節、ここには、救いの順序が記されています。まず、悔い改め。悔い改めは後悔ではありません。悔い改め(メタノイア)は方向転換を意味しています。ロマ3:23には、「全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」と書かれていますが、聖霊は私たちに働きかけて、清さや全き愛、人を赦す心や高ぶらない心を求めはじめさせてくださいます。そして、真実に示されるまま罪を悔い改めてゆく時、イエス・キリストの十字架が私の罪の赦しの為であったと信じる心も備えられ、自己中心で生きてきた世界から神様の方に向かう大きく方向転換を致します。このことを告白するのがバプテスマ式です。罪の中に生きてきた古き自分がキリストの十字架で共に死に、復活されたキリストと共に新しく生きる者とされたという意味が洗礼には含まれています。キリスト者として、キリストと共に生きる力、またキリストに従う力は、車にガソリンが必要なように、聖霊にあります。バプテスマの後、38節では「賜物として聖霊を受ける」と約束されています。この新たな一歩を踏み出す為に、まず成すべきことは「悔い改め」です。主イエスの宣教もまた、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)との勧めから始まりました。
                            B・F・バックストン著「使徒行伝講義」参考
最初教会の姿(42-47)
イエス・キリストはヨハネの福音書14章12節で、「私を信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」と言われましたが、ペテロのことばを受け入れ、バプテスマを受けて弟子に加わった人たちは、この日だけでも3000人(41)いました。最初のキリスト教会を形成した人たちです。最初の教会ではどのようなことが行われていたのでしょうか、キリスト教会の原形を見てみましょう。
一、 使徒たちの教えを堅く守った(42) 「使徒たちの教え」とは、新約聖書の教えのこと。
使徒たちを通して教えられた主の教え。
二、 交わりをもった。(42) 「交わり」には「共有」という意味もあり、お互いに与えられてい
る祝福を共有するという意味もある。単なる交わりではなく、もっと深い霊的な交わりを意味していた。
三、 パンを裂く。(42) 46節の「食事を共にする」こととは区別される。聖餐の「パンを裂く」
行為として特別な意味をもっていた。バプテスマにおいて告白したキリスト信仰を繰り返し告白し続ける礼典として、重んじられていた。
四、 祈りをしていた。(42) 初代の人たちは集まっていつも「祈りをしたいた」。46節では、
彼らは「毎日、心を一つにして宮に集まり」、祈り会をしていた。彼らは祈りに対して真剣だった。
これらは教会にとって基本的な証しとなりましたが、43節には「すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。」と記されています。神様の臨在のあるところに、神を恐れる思いがでてきます。そして、神の臨在のあるところで、神の不思議としるしがなされます。それは、証し以上の証しと言えるでしょう。救われる人が日々仲間に加えられたのは、特別なことをしたからでもなく、主が「加えてくださった」のです。それ故、教会に加わる人が起こされるのは、ただ、主の御業なのです。

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