9月22日ウェルカム礼拝メッセージ

『マリアの選択』

聖書 :ルカの福音書10章38-42節(新p136)

メッセンジャー:高江洲伸子師

ルカの福音書10章の大切な教え  10章は、72人の派遣。「心を尽くし、いのちを尽くして、‥主を愛する」、「隣人を愛する」最も大切な教え。良きサマリア人の例え話。そしマリア、マルタの記事をもって結論としています。工藤弘雄師は、良きサマリア人の例えが、隣人を自分自身のように愛する名画であるとすれば、「主の足もとでみことばに聴き入るマリア」は、全身全霊をもって主を愛することの名画と言えると、聖書日課に記しています。

二通りのおもてなし  マルタは、忙しく動き回っておもてなしをし、マリアは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」(39)。どちらもイエス様を愛する思いから出発していて麗しい光景だったでしょう。「ところが、マルタはいろいろなおもてなしのために心が落ち着かず」(40)、その不満は、一番大切にされるはずのイエス様に向けられたのです。マルタに何がおこったのでしょう。

マルタの不満  どんなにイエス様を愛していても、人間の体力には限界があります。最初は喜んで甲斐甲斐し接待していたマルタも、暫くして疲れた目で周りを見れば、イエス様のすぐ側で、座り込んで、話しに聴き入っているマリアがいたのです。腹立たしさが沸き起こってきても不思議ではありません。日課「聖書と共に歩む日々」には、「神と自分との間に人が入る時偽善に陥り」と記述。他者と比較しながらなされる奉仕は、もはやそれは神に向けられたものとはなりません。しかも、イエス様までも、何もしないで側に座り込んでいるマリアを注意もしないどころか、慈しむように見ておられる姿を見たマルタの不満は頂点に達し、ストレートにイエス様に非難の矛先が向けられたのでした。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように。おっしゃってください。」(40)このマルタの姿に、私たち人間の不満の発露を見ることができます。

「マルタ」という名前は「女主人」という意味があります。その名が示す通り、女主人マルタはイエス様にも命令を発したのです。私たちもまた、視線をイエス様から離し、人を中心に物事を捕らえる時、このような不満は自然に噴出してくることでしょう。キリストの僕であっても、イエス様から心の視線が外れる時、マルタがマリアとの比較を正当化して、「あなたは何ともお思いませんか。」「手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。」と訴える者となり、敷いては、比較の中で得た価値判断をもって、イエス様をも、自分の思い通りに指示してしまう者になってしまうことを警戒しなければなりません。それは、もはやイエス様ではなく、自分の思いこそが一番、自分が神の世界です。

御声に聞き入るマリア  マリアが座り込んでいた「足もと」とは、本来奴隷の座る場所でした。僕が主人の足もとでお言葉を聞いてこれから従おうと準備をしているところです。ですから、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」(39)マリアは、これから主に喜ばれる主の僕として行おうと備えていたところでもあったのです。イエス・キリストが私たちに一番願っていることは何でしょう。くたくたになるまで奉仕をすることでしょうか。イエス様が私たちに望まれていることは、まず、主のお心を知り、主のみ旨を知らせるみ言葉に従って仕えることではなかったでしょうか。奉仕は決して、自分がやりたい放題したら良いというものではありません。主から派遣されて行うものなのです。そこには、主の御用をしているというおそれが伴います。ですから私たちは、奉仕に先立って、「これは主から来ているものか、自分の好み、自分の判断で行おうとしているものであるかを、まず、問わなければなりません。大切なことは、第一にしなければならないことは、マリアのように、「主に聞く」ことです。

更に注意を喚起しなければならないことは、苛立つマルタは神と人との関係において、最も大切なところをマリアから取り去ろうとしていたことです。イエス様はそのマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それを彼女からとりあげることはありません。」(41,42)と、優しく、しかもきっぱりと仰られています。聖書中二度名前を呼ばれた人は、アブラハムとサウロとマルタの三人だけですが、高ぶる心に支配されて、イエス様をしかりつけていたマルタをもイエス様は優しく包み込み、「それを彼女からとりあげてはならない」と、諭します。

始めはマリアだった人も、気が付くとマルタになっていることがあります。誰彼ではありません。私たち一人一人の中にマリアとマルタがいます。主に聴くことをしないで立ち上がる時、知らないうちに厳しい人間的な批判の芽が突き出て、自分を傷つけ周りに弊害を及ぼし、キリストの愛が陰っていることがあります。けれども、主のひざ元で座り直して、御声に聴く時にマリアとされて、イエス様に喜ばれる僕として用いていただくことができます。

この世はマルタの世界です。人と人とが比較しながら生きています。人々は汗水流して勝ち組に入ろうと努力致します。けれど、イエス様は言われました。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」と。(詩編27:4)

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