『すばらしいことが起こる予兆』
聖書: 使徒の働き1章12-14節(新p232)
メッセンジャー:高江洲伸子師
台風10号はゆっくりと日本列島に上陸。そして今も、少しづつ移動しているものの、やがて、温帯低気圧に変わるということです。先週来、強風と大雨の恐怖に日本は覆われました。9月1日、今日は「防災の日」です。近年、こうした雨災害の脅威と共に、大地震の予兆にも敏感になってきていますが、「予兆」や「前兆」というサインは、地震だけでなく、日常生活や、働きの中でも、キャッチしたりすることもあります。
エレミヤは預言者としての召命を受けた時、神様からアーモンドの枝を見せられて、「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」(エレミヤ1:12)告げられました。なぜ、アーモンドだったのでしょう。旧約聖書に精通している空知太(そらちぶと)栄光教会の銘形秀則牧師は、“「アーモンド」(別名、あめんどう)は、1~2月頃に他の木に先立って冬の眠りから醒めて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ「目覚めの木」とも呼ばれるのですが、これはまさに「よみがえりのいのちの初穂」を象徴しているのです。“と、HPに書いています。神様は、季節の変化に敏感に反応するアーモンドの枝をもって、これから神様が新しい御業をなされようとしていることを、エレミヤに知らされたのでした。
使徒の働き1章では、イエス・キリストの昇天と、聖霊が与えられることの約束。そして、聖霊を待ち望む弟子たちの様子が記載されています。イエス・キリストは、7,8節で、「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と予告されて昇天されました。その後、弟子たちはエルサレムに帰り、彼らが泊まっている屋上の部屋で、「いつも心を一つにして」祈っていました(14)。主の約束を待ち望む時が祈りの時となっていったのです。その時の彼らの様子をルカの福音書24章では、「彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(52,53)と記しています。バックストン師は使徒行伝講義の中で、「おそらくまず最初にこの神殿に入って神様に感謝しました。また、それから自分の屋上の部屋に上がって祈ったでしょう。」(p61⁻62)と記しています。
また、復活後「40日にわたって彼らに現れ、」(1:3)た後、「五旬節の日になって、」(2:1)と書かれているところから、彼らはエルサレムの屋上の部屋で10日間の祈りの時をもったことがわかります。クリスチャンに対する迫害が弱まったわけではない中で、彼らは、喜びと感謝と期待をもって、120名(1:15)の人たちが、屋上の間で一つになって特別祈祷週間を過ごしていたのです。使徒の働きは、力強く福音宣教が拡大してゆく様が描かれていますが、同時に、祈りについても多くのことを記しています。実に、祈りこそが今の私たちに神様がお与えくださった「アーモンドの枝」にほかなりません。
「使徒の働き」の中での祈りの記事を追って見てみましょう。3:1「ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」 4:24「心を一つにして、神に向かって声をあげた」6:4「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」 8:15「二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。」 12:5,12「教会では彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」「多くの人が集まって、祈っていた。」 14:23「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」16:25「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。」 21:5「…彼らはみな、妻や子どもたちと一緒に町の外まで私たちを送りに来た。そして海岸でひざまづいて祈ってから・・・」等。これらを通しても、主の御業と祈りがどれだけ深い関係があるかがわかります。教会における祈りの量と聖霊の働きは比例するともいわれています。けれども、祈りを継続することは平易なことではありません。戦いと言っても過言ではりません。主の昇天を目撃した人は500名(コリント人への手紙第一15:6)いたと言われる中で、実際に祈りに集まってきた人は120名だったのです。
バックストン師はペンテコステ前のこの時の祈りの様子について、次のような霊的な見解を記しています(使徒行伝講義p72)。「神様は、弟子たちの心の中に働いてくださったと思います。最初はその心の中に自分を信じる心、自分の力により頼む思いが残っていたかもしれません。それがまったく取り除かれなければ聖霊を受けることはできません。あるいは、心の中にまだ人への怖れ、自分の名誉を大切にする考えが残っていたかもしれません。神様はこの長い祈り会の中で近づいて、そうしたものを潔めてくださったでしょう。またその信仰を試して、純金のようなものにしてくださったでしょう。(待ち望みの時間が長引けば長引くほど)悪魔はさまざまな疑いを生じさせたでしょう。・・・
主のみことばを・・・疑い初めたかもしれません。けれどもそんな悪魔の火矢を避け、彼らは信仰をもって祈り続けました。」 そして、ついに、あのペンテコステを迎えたのです。