『静まって、神を知る』
聖書: 詩篇第46篇8-11節(旧p980)
メッセンジャー:高江洲伸子師
真の静まりの必要
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 静けさを愛した松尾芭蕉の良く知られている俳句です。けれども、蝉の声もひっきりなしに鳴き続けると、騒音のように聞こえてきます。
チャック・スウィンドールという人は、「静かなものをもっていない人は、忙しくすることによって自分を支えようとする。よくしゃべり、動き回っているとき、どこかで霊的な力を失っている。本当の意味で神のため、人々のために働こうとするなら、人々から離れて、神のもとで静まる時が必要である。静寂と沈黙なしには深い洞察をもった人物になることはできない。」と言っています。ヴァンス・ヘヴナーという人もまた、「もし、人から離れるのでなければ、あなた自身がばらばらになるだろう。」(ネット ペンギンクラブ参照)とも言っています。そのような意味でも、私たちは、日々の生活の中に「沈黙と孤独」の時が必要です。
詩篇46篇10節を口語訳聖書は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と訳しています。普段、私たちは神のみ旨を知りたいと思う時、心静めて神を仰ぎます。新改訳聖書は「静まって」を「やめよ」と訳し、「やめよ。神であることを知れ。」と訳しています。新改訳2017では、ストレートに「やめよ。知れ。わたしこそ神。」となっています。
「やめる」のヘブル語「ラハバ」は、「手を引く」「見捨てる」「放っておく」「避ける」といった意味がありますから、「静まる」とは、「手を引く」、即ち、今していることから手を引いて、神を知る、と言った意味にも解釈できます。私たちは、神のみ旨を知ろうとして神に近づこうとするならば、日常の喧騒からも、今している事柄からも、また、自分自身の思いからも手を引き、離れ、しばし、神に聴くときを持つ必要があります。
沈黙と孤独の訓練
けれども、意識的に人を避け、一人になろうとし、沈黙の時を持とうとしても、心の中は逆に自分や人の声が一層強く飛び交い、神のことばを聴くことが逆に難しくなることがあります。真の意味での沈黙と孤独の時を持つとは、たんに唇のことばを閉ざすだけでなく、心の中で発することばも止める必要があります。沈黙と孤独の時を持つことの訓練が必要とされます。
沈黙と孤独の時をもつ秘訣は、「静まって(やめよ)、」(10)とのみことばに従うこと。そして、(自分の意志で)自分の手のわざを止めること。そして、神のみ声を聴こうと心の耳を主のことばに傾けることです。そのように一心に主のみ言葉に従って、心を静めて主を待ち望む者たちに神は近づいて来てくださいます。
マタイの福音書1章35節には「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」と書かれています。「沈黙と孤独の時」をもっておられた主イエスの模範がここにあります。
出エジプトしたイスラエルの民たちは、荒野を旅する中で、次々と遭遇する様々な艱難辛苦に、彼らのテントはつぶやきと不平不満のるつぼと化してゆきました。旅の指導者モーセは、「主があなたがたの為に戦われるのだ。あなたがたは、黙っていなさい。」(出エジプト14:14)と喝破しました。私たちは恐れからくるつぶやきや不信仰の声を止め、心の中を行き交う人の声を避けて、沈黙を勝ち取らなければなりません。
(補足)賛美の中での祈り
ユダヤの人々は祈る時、「主よ。」と呼びかけたなら、その後、しばらく沈黙し、神が主であるということがどんなことなのかを瞑想し、それから祈りを続けるそうです。祈りの中にも沈黙の時があり、それを通して、神を深く知り、神への信頼を学ぶのだそうです。賛美も同様です。46篇にも、3節と7節と11節の終わりに出てくる「セラ」という言葉は、音楽記号のひとつで、ここで沈黙の時をとると言われています。ユダヤの人たちは、詩篇で神を賛美する時も、静まって神を思うことを実践したのです。私たちは、祈る時も、賛美する時も、ただ口を開いてことばを出すというのでなく、心の中で静まって、神を思う、そのような心の態度を持ちたいものです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」神は、私たちに、神の声を聞かせ、神をさらに深く知ることができるようにと、「沈黙と孤独」の訓練をお与えになります。この訓練によって、神に従うことと、神に信頼することを学びとらせていただきましょう。(ネット ペンギンクラブより抜粋)