-いかに生きるか-十戒(3) 「第二戒-ねたむ神」
聖書:出エジプト記20章4-6節(旧p134)
メッセンジャー:高江洲伸子師
第二戒 「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」
「第一戒が唯一の神への信頼と服従を命ずるものとして、精神的な偶像を禁ずるものであったといえるなら、第二戒は具体的、物質的な偶像の禁止を命じているものといえるでしょう」と、関田師は書いています。
像
まず、偶像のなかでも、具体的な「像」を造ることについて、異教の神の像を造ることが禁じられていると考えられます。では、ヤーウエ(唯一なる主)の像は造っても良かったのでしょうか。
出エジプト記において、燃える火の中でモーセに現われた神は、形としてではなく「ことば」でモーセに語りかけました。(申命記4:15-19)また、イスラエルの民を導かれた神が導きの中で与えられたのは、神ご自身の像ではなく契約の箱でした。(サムエル記上6章。列王記8章)ここでは、ヤーウエご自身を像としては表わされてはいません。
「像」を造ることは、人間が神に出会いたいという願望がそれを形にしてゆくことにおいて繋がっています。モーセがシナイ山からなかなか降りてこなかった時に、アロンが金の子牛を造ったことも(出エジプト32章)その典型的な例と言えます。
霊なる神
偶像を禁じているのは、神は霊なる神であるからです。神が霊であることは、ことばと行為によって人間に出会う人格的存在であることを意味しています。この点において、旧約聖書における神を表現することばは慎重に理解してゆく必要があります。例えば、創世記3章8節において、罪を犯して隠れているアダムとエバを捜し求めて歩まれる神様についての表現の仕方など。ここでは、時と場合において、自由にご自身を現わし、語りかけ、行動される神が現わされています。ところが人間は、勝手な自分の解釈、また考えを付け足して、この自由に働きかける神様を「像」に変えてしまうことがあるのです。人間の枠内に押し込めて、人間にとっての都合の良い神像に変形させてしまうことがあるわけです。そこに、限定された神像が出現するのです。けれども人間を創造された唯一なる神は、人間がどのような媒介物をもって、人間の都合に合わせた神をつくりあげても、それによって動かされるようなお方ではありません。ヤーウエは、人間の手段を一切必要とされず、ご自身の自由なご意志で働かれるお方です。
そのように神は自由なるお方ですが、決して「人」を無視してはおられません。「神の先行恩寵」を軸にしてこそ、人間は自己を最も現実的に正直に認め、かつ人間らしく生きる道が開かれていきます。(マタイ6:33) ひたすら愛を注がれる神である故に「ねたむ神」という言葉で表現されたのであって、偏狭な民族的な神とは全く相いれないものがあることを意味しています。(ヤコブ4:5、出エジプト20章)他、夫婦の愛を例えることもできます。
真の礼拝
「ひれ伏し」「仕える」ということばは礼拝行為をさしていて、第二の戒めは、真の礼拝の在り方をも示しています。「ハイデルベルク信仰問答」第96項問「第二戒において、神は、何も、お望みになるのですか」に致して、答「われわれは、どのような方法によっても、神を模倣したり、また神が、みことばによってお命じになった仕方のほかには、どのような仕方によっても、神を拝んではならない、ということであります」です。礼拝には神の命じたもう仕方があるということです。いかに礼拝すべきかは神によって示されなければなりません。(申命記12:30,31)。神は自らを現わす時と所を定められますが、それは、私たちの悔い改めの所にほかなりません。人はこの神にお出会いする時の為に、心を開いておかねばなりません。人間は聖像造設によっても、いかなる方法によっても神の業を先取りすることはできません。神の自由な、あわれみへの信頼こそが、真の礼拝の基盤です。(ヨハネ4:7-26)
聖書にでてくるバール礼拝やその他異教社会の偶像礼拝の壮大さは讃嘆の的ですが、どのような「聖像」も「聖物」も存在しません。
エルサレム神殿を完成したソロモンは、「神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。」と祈りました。霊なる神のみが聖とされなければなりません。私たちは、ただ、神の被造物を被造物とし、創造者を創造者として崇め礼拝致します。
参考図書 関田寛雄著「十戒・主の祈り」