-待降節によせる主の祈りⅣ-
「私たちの負い目をお赦しください」
聖書:マタイの福音書6章9-13節(新p10)
メッセンジャー:高江洲伸子師
2023/12/10 アドベント第二 主の祈りⅣ「私たちの負い目をお赦しください」
人間関係の中で互いに傷つきながら生きている私たちに与えられた「主の祈り」の第4回目は、「私たちの負い目をお赦しください」です。この箇所は14,15節に、「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」と説明が加えられ、更に、18章の21-35節では、具体的にその説明が成されています。
1万タラントの負債を負った人が、王のあわれみを受けて全額赦された。ところがこの人は、自分に百デナリの負債をもつ仲間を赦すことができず投獄してしまったのです。このことを知った王は、「悪い家来だ。…私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32-33)と言って彼を獄吏に引き渡したのでした。この譬えを話されたイエス様は、「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」(35)と仰られたのです。
けれども、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」(12)この祈りのことばは、「私たちに罪を犯す人を赦します」から、その代償として、「私たちの罪を赦してください」という意味ではありません。「無償で受けたなら、無償で与えよ」と言えば、この言葉の真意に近いかもしれません。また、「愛」されたことのある人は他者に対して「愛」を与えることができる。「赦し」を受けた人はまた、「赦し」を与えることができる。このような理解に近いことばと言えます。
無条件の愛と赦し
例えば、イエス様が話された放蕩息子の譬話。父の財産を今すぐ欲しいと願いでた息子がいました。彼の思いは父の死後受ける財産贈与に関する自分の権利のことしかありませんでした。今はそれを言える時期でもない時に、ともかくお金が欲しい、早く自分のしたいことがしたい、その為の資金が今必要だからと申し出る息子。その申し出は、「お父さんよりも僕にはお金の方が必要だ」と言うことばに価しています。その父から財産を受け取って使い果たした後、彼は人生のどん底につき落とされ、悲しみと痛みの中で、「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18,19)と父のもとに帰ることにしたのです。この息子の心の変化。<ここに来て初めて彼は「私たちの負い目をお赦しください。」(12)と言えることばが出てきたと言えます。>父は、「あなたよりもお金が大切」とばかり出て行った息子が放蕩の果て、ボロボロになって帰ってくると、走り寄って彼を迎え入れ、無条件で溢れる祝福をその息子に与えたと言うのです。
このような話が本当にあるのだろうか、と思える話です。けれど、私たちキリスト者は皆が父の元に帰ってきたこの放蕩息子です。それ以外の何者でもありません。罪の借金を無条件でイエス・キリストの十字架の命とひきかえに全額返還していただいた者たち。この無条件の赦しを得た故に、私に負債を負わせる人たちを、ただ無条件で赦すだけの者たちなのです。
赦しの模範となられたイエス・キリスト
無条件で相手の罪を赦す。この赦しの模範はイエス・キリストの中に見ることができます。十字架前夜さいごの食事をされた弟子の中には、銀貨30枚でご自身を売るユダもいました。ユダはあからさまに御子を裏切りましたが、弟子たちは互いに十字架を前にした御子を裏切って散ってゆきました。けれど、十字架上のお苦しみの中、地上の命のさいごの時に、御子のお口からでてきたことばは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) という赦しと執り成しのお言葉だったのです。この御子の贖いの中に生きる者たちは、傷つけあう言葉が行き交う中にあっても、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」(12)と、祈りながら生きる者として召されているのです。実に、この祈りは宣べ伝えるべき福音そのものなのです。赦すということに於いて、神に忠実な者とされたいものです。
2023年クリスマス、私たちは、私たちの罪の犠牲となるために地上に来てくださった御子の御降誕を心からの悔い改めをもってお迎えいたしましょう。