-待降節によせる主の祈りⅢ-
「日ごとの糧を 今日もお与えください」
聖書:マタイの福音書6章9-13節(新p10)
メッセンジャー:高江洲伸子師
2023/12/3-主の祈りⅢ- 「日ごとの糧を 今日もお与えください」マタイ6:9-13
「主の祈り」前半は神についての祈りでしたが、後半は人についての祈りです。
近年物価上昇の激しい中で、主の祈りの中に「日ごとの糧」を求める祈りがあることは慰められます。イエス様は、マタイ4章4節で「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」とも言わましたが、そのことばは決して矛盾しているとは言えません。それは丁度赤ちゃんがお母さんからミルクを飲ませてもらって生命が維持できるように、神に全幅の信頼をおいて、生活の全てを神から受けようとすることこそ、「神のことば」によって生きることに他ならないからです。
「日ごとの糧を求める祈り」を通して、私たちは人間本来の必要な糧が神様からの良き賜物であることを深く知ることができます。
1.日ごとの糧への自然な欲求は悪いものではないことを知ることができる。
私たちの内側は様々な思いで溢れています。けれど、どれが本当の願いであるかを見極めることは容易ではありません。悲しみや怒り、愛や喜び、はたまた欲望と戸惑いが混線一体化しています。そのような中で、精神的なものはすばらしく、食事など肉体的なことに関することは恥としたり、二流のものとして見下していることがあります。けれど、イエス様は私たちに向かって、「日ごとの糧」の為に祈ることを教えられました。
神様は人間を物質をもって造られ、霊がお宿りになられるところも造られたのです。それはまた、人間がかすみを食べて生きるものとされたのではないという証しです。また、祈りは精神修養の為や、煩悩を減却する為のものではないということに他なりません。人間は本来、生存に必要な肉の糧の為に神様から必要を受けて生きる者とされているということです。
主の祈りの前半では神の栄光、御国、みこころを求める祈りがありましたが、その祈りの中に私たちは、今求めているものを投げかけるのです。例えば、「今、私はこれが欲しいと願っています。この求めは神様のお心は如何でしょうか」とそのまま必要を投げかけるのです。結果は、その願いはただ神様ご自身のお方法で満たされてゆきます。その時、私たちは神から来るもの得ることによって、肉体だけでなく、魂のうちに深い満足が及んでゆくことを体験致します。そのことが、その人の人間性を豊かに育んでゆくことになります。
2.自分以外の人たちの「日ごとの糧」のために祈る者とされる。
主の祈りの後半は全て「私たち」の祈りです。自分自身をより広いキリスト者の一員、そして、人類という家族の一員として考え、そのうえで、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と祈ることにより、糧を求める人々の側に立ち、その人たちに代わって、天の父に祈っている者とされています。この祈りを共有することによって、私たちは王なる祭司であられ、執り成し手でおられるキリスト代弁者ともされています。その祈りに誠実であるかどうかは、私たちが代弁している人々の側に実際に立っているかどうで試されます。
3.主の食卓を囲む者とされている ※主の食卓=聖餐式
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」マタイの福音書のこの一語は、「明日のための糧を今日もお与えください」という意味があり、更に「…『偉大な明日が約束されている命のパンを、いまここで与えてください』という意味となります。言いかえれば。来るべき御国の祝福を、いま与えてください、となります。…この祈りは五千人、四千人の給食で部分的に応えられ、最後の晩餐でさらに応えられ、そして何よりもイエスの死と復活によって完全に応えられました。…神の王国で重要なのは、私たちの願いや望を…地上的なものから離れて「霊的」なものに向かうことでもないからです。神の王国とは、神の次元が私たちの中に生まれることであり、それこそが待降節、クリスマスを待ち望み、(主が私たちの内に宿られることを)祝うことなのです。」とN・Tライトは「イエスと主の祈り」の中で記しています。
聖餐式はこの祈りを具体的に形として現わした形と言えます。聖餐式は御国の祝宴であり、私たちはその主の食卓に集う光栄が与えられた客人です。ここに、「日ごと糧」を求める祈りの出発点があります。聖餐式は、私たちが自分の肉体的、心理的、感情的、霊的な必要を携えて、「すべての願いを知っている神」の前に自らを差し出す場でもあり、神のパン、命のパン、明日のパンであるイエス・キリストご自身を受け取るために、私たちが両手を開いて前に出る時でもあります。 同じく「イエスと主の祈り」から抜粋