「信仰と癒し」
聖書:ルカの福音書8章40-48節(新p129)
メッセンジャー:高江洲伸子師
信仰
聖書には「信仰」ということばが多くでてきます。「信仰とは、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)とか、「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。」(マタイ17:20)等はよく耳に致します。
先週、このようなことがありました。金曜日の夜6時頃と言えば、階段は街灯の灯りがなければ真っ暗闇ですが、私は携帯を忘れたことに気が付いて取りに返ってきました。すると、その日強い風が吹いて、階段に溜まった枯れ葉の量は半端ではありませんでした。携帯を手にして階段を降りてゆく時、心の中で「神様がこの枯れ葉を風の箒で掃いてくださるとイイナ~」と思ったのです。それは、過去何度か時があったからです。次の日の(昨日)朝6時過ぎ、あたりが段々と明るくなる頃、早天祈祷会の為に私は再びこの階段を登ました。すると、まるで誰かが暗闇の中でお掃除に来てくださったかのようにキレイに葉っぱはなくなり、階段の片すみに所々吹き寄せられている枯れ葉を見るだけでした。神様は神様に信頼を寄せる者を決して失望させられないことを改めて知りました。
小さな神様との信頼関係を持っている人は、ますますその絆は強くされ、人生の岐路に立たされる時でも、神様は「これが道だ、これに歩め」等と、しっかりとその人の行く道を見守って下さっていることを知ることができます。けれど、その信頼関係を持っていない人は持っていたと思われていた小さな信頼までも「疑い」に変えられて、やがて失われてゆく、これは、人間関係にも似たところがありますが、「信仰」は「信頼」に通じる、そういった性質があるようです。
癒し
「心が癒されました」とか、「体が癒されました」とかはよく聞くことばです。
マルコの福音書6章56節は、「村でも町でも、イエスが入っていかれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された。」と書かれています。今も昔もイエス・キリストによって病が癒された人は決して少なくはありません。
2000年前、イエス・キリストがガリラヤ湖周辺を巡回しておられた時、「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒していたからである。」と、ルカもまた福音書6章19節に記載しています。イエス・キリストの行くところ、人々は病の癒しや奇跡を求めて押しかけていたようにも見えます。
病に苦しむ女の人と大病を患う娘の父ヤイロの信仰
群衆が喜んでイエス様を迎え、待ちわびていた時(ルカ8:40)のことです。ユダヤ教の会堂司をしていたヤイロという人が、イエス様の「足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。」(ルカ8:41)のです。その時も群集は我も我もとイエス様のところに押しかけて来ていました。その時です。イエス様が突然「わたしにさわたったのは、だれですか」と言われたのです。お弟子たちも、こんなに大勢の人の中でその一人を見つけるのはとても難しいと思い、イエス様のことばに少し驚きました。けれど、イエス様は「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力がでて行くのを感じました」(46)と周りを見回して言われたのです。群衆の中から女の人がおずおずと震えながら出てきました。そして、群衆が取り囲む中でイエス様の前にひれ伏して全てをお話し、イエス様の衣の房に触れたとき、ただちにその病気が癒されたことも告げました。その時イエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(48)とその女性の信仰を喜ばれ祝福されました。
ところが、そうしているうちに会堂司の家から使いの人が来て娘の死を知らされたのです。ところがイエス様はその言葉を聞いてもなおも、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(50)と仰られただけでなく、イエス様は少女の死を悲しんで人たちに「死んだのではなく、眠っているのです」(52)と言葉をかけられたので、人々はイエス様をあざ笑いましたが、堂々と、死んだはずの少女の手を取り、「子よ、起きなさい」と呼びかけられたのです。「すると、少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。」(55)のです。
信仰による癒しの御業を聖書は各所で証ししています。12年間、人知れず病に苦しんだ女性も清水の舞台から飛び降りるような思いで人垣を越えてイエス様の御衣に触ったことでしょう。会堂司も実質娘が死んだと告げられる中で、「ただ信じなさい」と御声をかけられてどれだけ心が揺れたことでしょうか。信仰は、実生活の中で、「この方を信じる」という意志が一人一人に求められています。