「全てを知っておられる神」
聖書:ヨハネの福音書1章43-51節(新p177)
メッセンジャー:高江洲伸子師
先週は、神様は私たちの側に立っていて下さり、私たちを弁護してくださるので、私たちは困難に見舞われ、不利な立場に置かれても勝利が与えられるという内容でメッセージを取り次がせて頂きました。今朝は、全てを知っておられる神の恵みを更に深く知りましょう。
イエス様とナタナエルの出会い
ナタナエルという人はヨハネの福音書にのみ登場します。けれど、多くの聖書学者はナタナエルは12弟子のバルトロマイだろうと言っています。そのナタナエルとイエス様との出会いは、弟子のピリポが、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(46)と伝えたということです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」とナタナエルは気乗りのしないような返事をしていますが、これは、「旧約聖書のどこにナザレから救い主が出てくると書かれているか」と問直しているのです。そのナタナエルにピリポは、「来て、(そして)見なさい。」(46)と彼をキリストのもとに連れて行ったのです。
ところが、イエス様は初対面のナタナエルに、「見なさい。まさに(ほんとうの)イスラエル人です。この人には偽り(うらおもて)がありません。」(47)と言われました。どうしてイエス様はそのように言われたのでしょうか。ナタナエルは不思議に思って「どうして私をご存知なのですか。」(48)と尋ねました。するとイエス様は「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」(48)と答えられたのです。これは、イエス様はピリポがナタナエルに声をかける前から、彼がいちじくの木の下にいたのをご存知であられたということですが、それにしても、「この人こそ(ほんとうの)イスラエル人です」とか、「この人には偽りがありません」とまでどうしてイエス様は言われたのでしょう。
実は、いちじくの木は、ユダヤ人にとって平和と静けさを表す特別な意味があり、ナタナエルがそこで祈っていたのを見たということは、いちじくの木の下で祈るナタナエルの祈りをイエス様はご存じだったということです。イエス様はナタナエルとお会いする前から彼の外側だけでなく、心の中まで、彼のすべてを見て知っておられたということです。ナタナエルはそのキリストの言葉の中から、自分の祈りがきかれていたことを確信して、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49)と答えたのでした。
ピリポだけではありません。イエス様は今も生きておられて、全ての人の心の思いを全て読み取り、理解しておられるお方。心の奥底にあることを見抜いておられ、言葉で言い表せない魂のうめきを聞き取っておられるお方なのです。
イエス様との出会いから神との交わりへ
そのナタナエルに、キリストは、「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」(50)「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」(51)と答えられました。これはどういうことでしょう。
これは、創世記28章にあるヤコブがベテルで体験した出来事が背景にあります。兄エサウを出し抜いて命を狙われることになったヤコブは、家を出て旅立ったその夜、石を枕にして一人野宿をすることになりました。不安に駆られる中で、その時彼は夢を見ました。その夢は、天から地に向かってはしごがかけられ、そのはしごの上を神の使いたちが上り下りしていたのです。夢の中で主が側に立ち「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15)と語られたのです。ヤコブはこの時、「ここは神の家…天の門」と言っています。イエス様はこの出来事にちなんで、「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」(51)と言われたのでした。つまり、神様はどのような時でも、神を信じる者たち(※「あなたがた」と複数形)には、ヤコブに対してそうであったように、「あなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、…あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と言われたのです。そして、今やその天からのはしごとして、イエス・キリストご自身を備えてくださったのでした。
イエス・キリストこそ、私たちと父なる神を結びつけてくださるその架け橋に他なりません。天の豊かな恵みがそこの恵みの門から降り注がれてきます。イエス様との出会いは更に深い神ご自身との豊な交わりの恵みに繋がっています。