「罪のはじまり、ゆるしのめぐみ」
聖書:ローマ人への手紙5章19-21節(新p305)
メッセンジャー:高江洲伸子師
創世記は、「初め」という意味があり、全ての始まりを示しています。
罪のはじまり 創世記3:1-7
神様が造られた最初の人、アダムとエバ。彼らは楽園で神様と交わり満ち足りた日々をおくっていました。そこへ、誘惑者ヘビが近づいてきました。「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物にうちで、ほかのどれよりも賢かった。」(1) ヘビはエバに、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(1)と尋ねました。少し違和感のある言い方です。悪魔の化身であるヘビは、神の言葉に対する疑いや不信を誘いだそうと働きかけていたのです。それに対するエバの返答は「…それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」。2章17節では「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と予告されていました。「死んではいけないから」というような柔らかく諭すような言い方では決してありません。絶対にしてはならないと命令されていたのです。
微妙にここから、エバは神様中心の視点がずれてゆき、自分の視点による判断に変わってきていて、ヘビの語りかけに心が動き始めている様子が伺えます。それが「死んではいけないから」と言い換えた言葉になっています。サタンの化身であるヘビのねらいは、こうした少しの曖昧さという隙間から入り込み、巧にみことばの確信をゆるがせて、最後は夫アダムに罪を犯させることにありました。
後はサタンの思うつぼです。「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。…こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。」(6,7)ここから罪はウイルスのように人類の中に入ってきました。
ローマ人への手紙5:12には、「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様にー」と書かれています。こうして、アダムが犯した罪によって、全人類に死が入り込んだのです。これが罪の結果です。
ゆるしのめぐみ ローマ5:19-21
こうして、罪と死に支配され、滅びに向って一直線に突き進んでいる人間に対して、神様は御子イエス・キリストを送って下さいました。「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」(21)
例えばマムシの毒と血清注射を思いだして下さい。マムシに噛まれて放っておくと数時間で毒は全身にまわってゆき、0,1パーセントの割合で死亡することもあるそうです。けれど6時間以内に血清注射をうてば死からは免れることができるということです。そのように、イエス・キリストは、罪の罰と死の呪いをことごとくご自分の身に受けて下さり、十字架のお苦しみと死をもって、全人類の罪の贖いの業を成し遂げて下さったのです。聖書には「罪の支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)と記されています。
新約聖書でイエス・キリストは「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14,15)と言われています。モーセの時代は血清注射もなかった時代、不信仰が原因で毒蛇に噛まれた人に対して、神様がモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる」(民数記21:8)と言われました。そして、「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」(9)のです。イエス・キリストは、そのように、全人類の罪の身代わりにご自身が十字架に上げられる時が来る、けれど、それは「信じる者がみな、人の子にあってエ年のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:15)言われました。
「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです」(Ⅰコリント15:21-22) アダムによって、死が入ってきた人類に、神様はキリストの到来を通して死んでも生きるようにされました。アダムによって始まった罪と死の問題を、キリストによって終わらせる働きを神ご自身が用意して下さったのです。