4月16日礼拝メッセージ

「主の食卓」

聖書:ヨハネの福音書21章1-14(新p229)

メッセンジャー:高江洲伸子師

ガリラヤ湖畔での主との出会い

その日、7人の弟子たちは自信を失い、失望落胆の中で、ガリラヤ湖畔にいた。彼らはペテロを筆頭に漁に出たが、何も捕れず(3)、弟子としてだけでなく、世の全てから見放された思いであったかもしれない。復活されたイエス・キリストは、岸辺に立たれて、その様子をご覧になっていた。けれども弟子たちには、それがイエスであることが分からないでいた。(4)

私たちは、すばらしいと思える出来事の中に神はおられると思い、失敗もなく、完璧な人ほど神様に愛されていると思いやすい。けれど、復活されたイエス・キリストは、キリストを否み、バックトラック(後戻り)しようとしている弟子たちのもとを訪れた。神様は、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)お方であるにも拘わらず、失意の中にあった弟子たちの目は、すぐそこにおられる主のお姿を見分けることができないでいた。

主の食卓への招き

聖書では食事をする場面が多く出て来る。それは、神と人との交わりを「食事」、あるいは「食卓」によって表現しているからだ。

エリヤは真の主の預言者だった。エリヤが神に祈ると雨が止み、また祈ると大雨になった。バアルの預言者との戦いで、彼は完全に彼らを屈服させた勝利者だったが、バアルの預言者を率いていた女王イザベルが、脅迫的な言葉を彼に発すると(列王記第一19:3)途端に怖くなり、エニシダの木の下に逃げ込み、死にたいと願うほど弱くなった。その時神様がされたことは、香ばしい焼き立てパンと壺に入って美味しい水を彼に与えることだった。この主の振る舞いに与ったエリヤは、「この食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた」(19:8)のだった。主の恵みの振る舞いは、このように、人を癒し強め、その人に新たな使命を授けてその人を生かす。

失望落胆している弟子たちにイエス・キリストがしたこともまた、彼らに美味しい朝食を振る舞うことだった。「彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。」(ヨハネ21:9)。この食事の後、ペテロは新約の教会を率いるという新たな宣教の使命を授かる。他の弟子たちもまた、新約の教会を担う大切な働きに任じられてゆく。

ダビデは詩篇23篇で「あなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。」(5)とうたった。神の食卓の招きに応じると、そこには、神様からの最高のもてなしが待っているのだ。(黙示録3:20)

主の食卓の豊かさ

ルカの福音書24章で、復活されたキリストは、エマオ村に向かって歩いていた二人の弟子の側を共に歩いていたが、「二人の目がさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」(16)。けれど、彼らと共に夕食の席につかれたイエス・キリストが、「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。」(30)すると、「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」(31)。ガリラヤ湖畔においても、朝食の席上、「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」(13)。

かつて、ガリラヤ伝道のさ中、キリストが大麦のパン五つと2匹の魚を聖別し、裂いて人々に分け与えると、そこにいた何千人という人たちの食が満たされるという奇跡がおこった。ここ、ガリラヤ湖畔で、復活の主の恵みの振る舞いに与った弟子たちは、やがて、魂の渇きを癒す働き人として、果てしなく沢山の人たちの魂の糧を供給してゆくことになる。

主が備えられる食卓、それは、主がご自身の命の犠牲を払って私たちに備えられた食卓に他ならない。今も主は、主の死と復活を通して、永遠の食卓に私たちを招いておられる。

失望落胆の中にいた貧しい弟子たちが、ただみ声に従って網を舟の右側に降ろしたところ、つい先ほどまで1匹も魚が寄ってこなかった網に、153匹の魚が入ってきた。主の招きに応じる人の人生は、このような祝福の宴とされてゆく。

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