4月9日復活節礼拝メッセージ

「週の初めの日の早朝」

-マルコの福音書に学ぶ㉗-

聖書:マルコの福音書16章1-8(新p104)

メッセンジャー:高江洲伸子師

2023/4/9 イースター礼拝「週の初めの早朝」マルコ16:1-8

 私たちにとって、死は人生の終着駅です。しかしイエス・キリストの十字架の死は、新しい生命の始まりでした。

日の出のころ墓に行った
イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られた金曜日の日没から土曜日の日没までは安息日にあたる為、誰もイエス様の死体がおさめられている墓に行くことが出来ません。そこで、マリアたちは、あくる日の朝早くご遺体に香油を塗る為に墓に行ったのでした。
墓に行った人たちは、イエス様が生きておられる間に、自分は必ず殺され、三日の後に甦ると言われたのを、何度も聞いていながら(マルコ8:31,9:31,10.34)、実際にイエス・キリストが甦えられるなどとは思っていません。ただどうすることもできない悲しみを、せめてお身体に香油をぬって、丁寧に葬ることしかできず、希望もなく墓に急いで行ったのです。 
マリアたちが夜明け前の薄暗さの中で、悲しみを抱きながら、墓に向かって出かけたように、私たちもまた、毎日忙しく働いたり、楽しく遊んだりしながらも、結局は墓に向かって希望のない人生を歩んでいるのかもしれません。

十字架につけられたイエスを捜している
女性たちが墓に行って、探し求めたものは、生きておられるイエス様ではなく、死んで、もはや過去の人物になってしまった、ナザレの大工の子どもであるイエスの亡きがらでした。
 私たちは福音書によって、神の国の宣教に勤しまれ、病人を癒し、罪人の友となって、さいごは十字架につけられた、イエス・キリストのご生涯とそのお働きについて学んできました。けれど、私たちが福音書を学ぶことによって、ただ単に過去の偉大な人物としてのイエス・キリストを学ぶだけならば、福音書は単なる伝記でしかありません。福音書を通して、今、私たちは、生きておられるイエス・キリストに出会うことができます。福音書は伝記ではありません。イエス・キリストは、目には見えませんが、目にみえるものよりもはるかに確かな存在として、今も生きて私たちと共にいます。
 
イエスはよみがえって、ここにはおられない
 死体を捜し求めていたマリアたちに、み使いは、「イエスはよみがえって、ここにはおられない」と告げました。イエス・キリストの復活は、どのような言葉をもって説明したとしても、人間のことばでは到底納得できることではありません。ここでも、み使いは、ただイエスの死体がおさめられていた墓の中が空になっていたという事実と、「イエスはよみがえられた」という事、そして、「かねて、あなたがたに言われたとおり、そこ(ガリラヤ)でお会いできるであろう」と、み言葉だけを伝え、人を納得させる説明は加えていません。ここでは、復活の事実を確かめることではなく、その事実を信じることが求められているのです。

弟子たちとペテロとの所へ行って、伝えなさい
 天使は、ここで特にペテロの名前をあげています。ほんの数日前、イエス様が十字架に架かられる前夜、彼は自分の身を守る為に、弟子であることを否定したばかりでした。復活されたイエス・キリストは、そのペテロに会うことを願われたのです。復活のメッセージは、一人一人に個別に語りかけられ、それも、自分自身の弱さに痛みと苦しみを覚えている人に、より早く、より力強く語られます。
このように、主イエス・キリストの福音は、ペテロをはじめ、師を裏切り打ちひしがれていた弟子たちの復活の主と出会いから始まったのでした。

参考図書 斎藤正彦著「聖書に親しむ」-マルコ福音書に学ぶ- 完

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次