「さいごの食事」
-マルコの福音書に学ぶ(23)-
聖書:マルコの福音書14章22-26節(新p98)
メッセンジャー:高江洲伸子師
主イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちと共に、「さいごの食事」をされました。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵でも良く知られている「最後の晩餐」です。最後の晩餐だけでなく、福音書には、イエス様が様々な人たちと食事をされている箇所が至るところにでてきます。けれどイエス様とお弟子たちの最後の食事には特別な意味がありました。今の教会でも行われている聖餐式のもとになった大切な食事だったからです。この最後の晩餐の席上で主イエスは、パンとぶどう酒を弟子たちにお与えになり、やがて人々の罪を取り去るために、ご自身のからだと血とを犠牲としてささげることを明らかにされたのです。
これはわたしのからだである
食事の途中で、イエス様はパンを裂いて、「とれ、これはわたしのからだである」と弟子たちに差し出されました。裂かれたパンは、十字架上でひき裂かれるご自身のお体のことを意味しています。ユダヤにおいては、神殿で罪を言いあらわした人は、自分がその罪の罰を受ける身代わりに動物を犠贄として祭壇にささげ、罪の赦しを受けました。イエス・キリストは、わたしたちの罪の犠牲として、ご自身の肉体を生贄として、十字架の上におささげになられたのでした。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)とイエス様は言われましたが、イエス様こそ私たちの罪を取り去るために、生命を捨てて、私たちに対する愛を表されました。神の愛は決して抽象的なものではなく、十字架において、具体的に、徹底的に示されたのです。最後の晩餐の席上、イエス様は、パンを弟子たちに差し出され「取れ」とお命じになられましたが、今、私たちは、十字架上に差し出されたこの大きな愛を受け取ることができます。私たちの肉体の生命を養うためにはパンが必要ですが、私たちが霊的に生きる者とされる為になくてならないものは、差し出されたイエス様ご自身の生命です。聖餐式ではこの恵みに与ることができます。
これはわたしの契約の血である
旧約聖書で祭壇に注がれた動物の血は、神とイスラエルの民族との間にたてられた、救いの約束のしるしとしての契約の血です。(出エジプト記24:8,ゼカリヤ書9;11)しかし、新たな時が訪れ、神は動物の血ではなく、罪のない神の御子が、十字架の上で血を流されたことによって、イスラエル民族だけでなく「多くの人」、即ち、人種や国籍の違いを越えて、イエス・キリストを信じる全ての人が救われるという約束が成されたのです。
社会生活は、お互いが約束を守ることによって成り立ちますが、私たちは神に対して、再び罪を犯さないことを守りきれるかどうか自信がもてなません。けれど、たとえ約束が守り切れない私たちであっても、受け入れてくださる神の約束は、決してかわることがありません。聖餐式はこの約束のしるしでもあります。
イエス・キリストの十字架について、多くの本が書かれ、語られてきました。しかし、十字架は言葉では決して説明しつくことができません。「これはわたしのからだである。これはわたしの血である。」という短い主の言葉こそ、百万冊の書物にもまして、十字架を説明しているのです。そして、現在私たちは、礼拝でみ言葉のさとしを頂き、聖餐にあずかることによって、この深い神秘にふれることができるのです。
神の国で新しく飲む日
イエス様は神の国においてわたしたちに約束されている祝福を、しばしば結婚の祝宴にたとえられました。(マタイ22:1-14, 25:1-13 ルカ14:15-24 )また、イザヤ書には、「万軍の主はこの山で、すべての民ために肥えたものをもって祝宴を設けられる。」(25:6)と記されています。イスラエルの人々にとっては、彼らの先祖がエジプトの奴隷から解放されたことを記念する過越しの食事でしたが、聖餐式は、すべての人が罪から解放されることを、パンとぶどう酒によって約束された、何にもかえることができないめぐみの食卓だったのです。
このめぐみの食事は、神の国において私たちに約束されている大きな喜びの祝宴、いわばコピーでありひな型です。この世においてさえ、このようなめぐみにあずかることがゆるされているとすれば、やがて神の国における私たちに約束されている食卓は、どんなにすばらしいものでしょうか。
信仰生活とは、イエス・キリストと食事を共にすることであり、その愛のうちに生かされる幸いなのです。神の国における大いなる喜びの祝宴を待ち望みながら、地上において、イエス・キリストが用意された聖餐にあずかることができるということは、なんと幸せなことでしょう。