「ナルドの香油」
-マルコの福音書に学ぶ(22)-
聖書:マルコの福音書14章3-9節(新p97)
メッセンジャー:高江洲伸子師
時機は、過越しの祭りの二日前。場所は「ベタニア」。ベタニアには、マルタ、マリア、ラザロも住んでいた。同じ町のシモンの家で、弟子たちも食事に招かれていた時の出来事。
「ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」(3)。その油は、「300デナリ以上」(5)もする高価なもの。1デナリは一日の日当、300デナリは1年間相当の賃金に価する。この女性の行為は、そこにいた一部の弟子の目には、「無駄」(5)な行為と映ったが、イエス様の目には「良い」(6)行いとして映った。
この女性の行為に対して言われたイエス様の言葉。
「わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(6)
ここでの「良いこと」と訳されている言葉は、もともとは「美しいこと」という意味。善行は必ずしも美しい行為であるとは限らない。イエス様は善行に励み、人々から尊敬されているパリサイ人の、偽善のみにくさを批判された。(ルカ18:9-11 ※パリサイ人の祈りの言葉に注意)善行奉仕の奥に潜む偽善に向けられる神の目。※寄付と控除で試みられた私自身の証。
「彼女は、自分にできることをしたのです。」(8)
この女性は、利害、打算、常識をこえて主に全力を傾け、その時において、できる限りのことを行った。香水を少量だけ注ぐことも、半分とっておいて貧しい人たちに施すこともできたし、香油の有効な使い道をよく計算して考えることもできただろう。けれど、ここでは、「その壺を割り、イエスの頭に注いだ。」(3)。この時のこの女性の気持ちを考えてみた。なぜ、イエス様や周りの人に「香油を注いで宜しいですか?」と聞かなかったのだろう。それは、もしかして、この時のこの女性の目にはイエス様しか入っていなかったのではなかろうかと思える。普通、私たちは周りの人の視線や批判が気になり思いと行動の間には距離があるものだけど、「愛は人を走らせる」とも言われるが、この時のこの女性は、イエス様に向けての溢れる感謝が間をおかなきで、行動になってしまったのではなかろうか。しかも、壺を割って、イエス様の頭に注いでしまう程のストレートな行動に。彼女の背後にそうせざるを得ないご聖霊の促しはなかったのだろうか。
「埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」(8)
どんなによい事をするにしても、タイムリーな時というものがある。助けを必要とする人に出会ったならば、その時すぐにもっているものをなげ出す決心をしなければ、人を助けることはできない。後になって、あの時に助けておければよかったのにと後悔してもおそい。
神へのささげものや奉仕もまた、神の時の必要に応えるもの。それ故、この女性のささげものは、十字架を前にしたイエス様には、真に、ピッタリのささげものだったのだ。むしろ、十字架にお架かり下さる為に地上に来られたイエス様の生涯のご計画にきちんと組み込まれた出来事であったかもしれないのだ。おそらく、この女性自身は、そこまでは意図していなかったかもしれないが。
結果、
「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(9)
と、主は仰られ、2000年経った今も、ナルドの香油は、レントにおける恵みの一滴として、語り伝えられている。
さいごに、17世紀、ヨーロッパに多大な影響を与えた敬虔主義運動の指導者ツィンツェンドルフは若い時、美術館でキリストの十字架の画の下に書かれていた「わたしはあなたにこのことをした。あなたはわたしに何をしたか」という文字に目を留め、それまで、この世の楽しみを求めて生きてきた生活をすてて、生涯をイエス・キリストにささげつくして生きたと言われています。わたしたちはイエス・キリストに何をささげようとしているのでしょうか。
レント、十字架を仰ぎ、奉仕と捧げものの原点に立ち返ってみたい。