「救いの道」
聖書:ローマ人への手紙10章8-13節(新p314)
メッセンジャー:高江洲伸子師
コリント人への手紙第一15:3-4で使徒パウロは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと。」これが最も大切なことであると記していました。
そしてローマ人への手紙10:9-10では、「もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と書いています。
人がキリストによる永遠の救いを得る上で、このみ言葉は非常に大切なことを示しています。
イエス・キリストの救いについて知る上で、2000年前に、なぜキリストが、地上に来られたかを知る必要があります。それについて、マタイの福音書9:13では、「わたしが来たのは、正しい人を招くたまえではなく、罪人を招くためにです。」と、来られた目的を明言しています。また、同11:28では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われているところから、キリストは、私たちに真の安息を与えるために来てくださったことがわかります。さらに同20:28で、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た…」と勧めている箇所を通して、罪の代価としてご自分の命を私たち罪びとに与えるために来て下さったことを知ることができます。
そのイエス・キリストが私たちに差し出された救いを受け取る上で、私たち人間がすることは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」を、信じて受け取ることであり、また、「信じます」と口で言い表すことであると使徒パウロは言うのです。(ローマ10:10)。
バークレーという聖書学者は言っています。
「あなたの口でイエスを主と告白」(9)するということに関して、「ここでの主は、キュリオスというギリシャ語が使われていて、このキュリオスはローマ皇帝の称号であり、ギリシャの神々の称号でもあった。また、ヘブル語聖書をギリシャ語に訳した時も神の名を同じキュリオスと訳した。人々はイエスをキュリオス(主)と呼ぶことで、自らの生活上の唯一絶対的権威を与えたのである」と。(当時、実際に「イエスはキュリオス」と口で言い表すことは、皇帝や他の神々に対して大変無礼な事であり、反感だけでなく時には命がけでもあったことでしょう。)
続いて、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9)ということに関して、「復活はキリスト者の信仰の本質であった。イエス・キリストはかつて生きておられたというだけでなく、今も生きておられると信じなければならない。…彼は真の実在として生きている…真の勝利者として知らねばならない。」とバークレーは書いています。(私たちが「イエスを死者の中からよみがえらせた信じる」ということは、イエスは永遠にいます方であることを証することになり、それは、全世界の主、永遠に至る統治者として認めることをも意味していることに他なりません。)
さらにバークレーは、「しかし、自分の心で信じるだけでなく、口で告白しなければならない(10)。キリスト信仰は信じることプラス告白することである。それは、人々の前での証を含んでいる。神だけでなく、われわれの仲間もわれわれがキリスト者であることを知らねばならないのである。自分がどちらの側にあるかを人々に宣言しなければならないのである。」と。
ユダヤ人にとって、神への道が律法によらないことを信じるのは非常に困難であった(12)。律法によらない救いを受け入れることはユダヤ人の人にとっては、信仰の破壊であり、全く新しいものであった。その上、神への道がすべての人に開かれていることを信じることは困難であった(12.13)。彼らにとって、異邦人がユダヤ人と同じ位置にあるとは思われなかった。そこでパウロはイザヤ28:16 「すべて彼を信じる者は失望に終ることはない」と、ヨエル2:32「主のみ名を呼び求める者はすべて救われる」の旧約聖書の2か所を引用する必要があった。ここには、何の制限もない。約束はすべての人に対してなされ、ユダヤ人とギリシャ人との差別がなかった。ユダヤ人の律法に対する熱心が徒労であり、信仰こそ、神への唯一の道であり、その道がすべての人に開かれていることを、パウロはここで知らせようとしていた。
8節からして、救いは厳し修行や努力によるものでなく、だれの手にも届く身近な現実の中で説かれるものであり、全ての人が救いは信仰によって与えられるものであると説く。