「クリスマスは喜びの訪れ」
聖書:ルカの福音書2章8-18節(新p110)
メッセンジャー:高江洲伸子師
博士たちのクリスマス
クリスマスには、不思議なできごとが数珠つなぎのように起こっています。
例えば、外国の博士たち。彼らは占星術師、天文学者、小国の王のような存在の人たちとも言われていますが、はるばる外国から、高価なプレゼントを手にして御子のお誕生のお祝いに訪れています。それだけでも、普通でない話ですが、その博士たちを導いたのは、「星」の存在でした。星を観察するのが彼らの仕事だったようですが、ある日、博士たちは赤い大きな星が昇るのを発見します。ユダヤに新しい王が誕生する時、その星が現れるという言い伝えを知っていた博士たちは、隊商を組んで、少なくとも数か月はかかるであろう外国へはるばる旅をしたのです。
このことの裏付けは、旧約聖書民数記24:17-19の言葉にあるだろうと言われています。「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、…ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から絶やす。」と書かれていて、リビングバイブルは17節を「イスラエルから一つの星が輝き出ます。一人の王が起こり・・」とも訳しています。恐らくは、その民数記の記事を彼らは知っていて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と、当時の王宮を訪ねたのだろうと言われているのです。
宮殿で彼らに謁見したヘロデ王は「新しい王」と聞いて、「動揺」(マタイ2:3)しました。実はヘロデは純粋なユダヤの血筋でなかったので、本当の王が現れるということには特別警戒心を抱いたのでした。ミカ書の預言から新しい王はベツレヘムに誕生することを知ったヘロデは、やがてベツレヘムに住む3歳児以下の子どもたちを虐殺するということまでしてしまうのです。
「ベツレヘム」という名前を聞いて、宮殿を出た博士たちの前に、また星が現れ、彼らをキリストの元に導きました。「すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいつところまで来て、その上にとどまった。」とマタイ2:9は記しています。その時、「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」と、タイ2:10は記しています。キリストに出会うことは喜び以外の何ものでもありません。まさに、クリスマスは喜びの訪れです。
この星は、今も、真実に救い主キリストを求める者の上に輝き、求める者をキリストの元に導きます。それだけでなく、キリストの為に労する者たちの行く道を照らし、悪しきものから守って下さいます。キリストの生存を保護されたお方は、キリストの為に生きる者たちの為にも、不思議な守りを与えて下さるのです。
羊飼いのクリスマス
救い主御降誕の知らせは、野原で羊を飼っている羊飼いに、まず第一声が届けられました。御使いは彼らに告げています。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。…」(ルカ2:10)と。救いは「喜び」です。決して、固く、きつく、冷たいものではありません。貧しさのどん底にあっても、そこに神が介入される時、不思議な平安と喜びを体験することでしょう。
喜びのすすめ
使徒パウロは、獄の中からピりピの信徒に向けて書いた手紙の中で、「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」(ピりピ2:17,18)パウロは殉教を前にしても喜んでいたのです。それ故「私と一緒に喜んでください」と、喜ぶことを勧めています。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4:4)と繰り返します。
長崎で殉教した24聖人の中には子どもいました。時津港から街中を民衆の見せしめの為に手を縛られて歩いて来た24名が処刑の場所に来た時のことです。最年少のその子どもは、24本置いている十字架をみて自分の十字架はどれかを捜したと伝えられています。彼らの顔は不思議な安らかさが漂っていて、カトリックの祭司もまた、「その時がくれば、当事者でなければわからない、不思議な平安と喜びがあるように思えます」と言われていたということです。
「この民全体に与えられる、大きな喜び」(10) クリスマス、それは、大いなる喜びの訪れです。おびただしい天の軍勢は野宿していた貧しい羊飼いたちを照らしました。心の貧しい人にこそ神の恵みは注がれ、今悲しんでいる人が喜びに満たされる。それがクリスマスです。