「時代の流れの中で、消え去らない聖書の言葉」
ーマルコの福音書に学ぶ(21)ー
聖書 : マルコの福音書13章28-37節(新p96)
メッセンジャー:高江洲伸子師
[水口 功師(東京フリー・メソジスト教団 桜が丘キリスト教会牧師)9月19日講演からまとめさせていただきました。(からしだね11月号掲載記事と重複しています。)尚、講演ではルカの福音書21章から語れましたが、マルコの福音書のみことばに変えて説明させて頂いている箇所もあります。]
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「始まりがあり、終わりがあります。天地創造のはじめの時からおられたイエス様が、終わりについて語られています。終わりが近づく今を生きている私たちが、どのように生きるべきかについて、聖書から知りましょう。
ルカ21:33「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(新改訳2017)を、新改訳3版と口語訳聖書は、「滅びます」と訳しています。ここで使われている原語の「パレルコマイ」は、「消える、滅びる」と訳すよりも、むしろ「過ぎ去る」の方が適切のように思えます。神が造られた天と地が全くなくなるというよりも、「過ぎ去って」、「新しい世界(新しい天地)が来る」と訳した方が適しているように思えます。
「パルコマイ」は、コリント人への手紙第二5章17節においては、「古いものは過ぎ去って、…すべてが新しくなりました。」と訳しています。また、ノアの時代の裁きの後も、天地は消滅したのではなく、裁きの後、人は神との新たな契約の中で生きる者とされました。
マルコ3:28で主イエスは、「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。」と仰られました。「夏が近いこと」のしるしは木の芽が出ることによって知ることができるように、終わりが近いことのしるしは、「にせキリスト、戦争、地震」があることです。
十字架を前に主イエスは、この「天地は消え去ります。しかし、私のことばは決して消え去ることがありません。」(過ぎ去ります)と言われました。(参照 イザヤ65:17「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」)たとえ、今の天地が過ぎ去っても、変わらないものがありあます。それは、みことばです。この世界は、神のことばで造られました。神のことばは、天地創造の前からあったことにより、天地が過ぎ去っても、決して過ぎ去ることはありません。使徒ヨハネが、セントパトモス島で見た幻は、「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)でした。ここでの原語も「パレルコマイ」で、「以前の天と地は過ぎ去り」と訳され、主の御声により全てが導かれています。
さらに、マルコ13:33では、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」は、ロマ13:11では、「眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。」と書かれています。「気をつけて(いつも)、目をさます」とは、「たゆみなく祈る」(コロサイ4:2)ことです。祈りは神との呼吸と言われます。終末を生きる私たちは、日常的に神とやりとりをして、霊の呼吸をすることが大切です。教会の集まり、集会で神の名を呼び、神を身近に感じることは言うまでもなく、教会の外でも、目を覚ましてたゆみなく霊の呼吸をすること。そして、日常生活の中で神様から与えられている使命を果たすことです。イエス様も、昼は宮で教え、夜はオリーブ山に退かれて祈られました。<目をさましていることの反対は、眠っていることです。これは、目を主のみことばから離している状態です。そのため、目に見えることに心がひき寄せられてしまうのです。>※補足
私たちもまた、十字架を前にしたイエス様が、絶えず祈り、成すべき事柄を右にも左にも逸れることなく、ご自分の使命を果たされたように、日々霊の呼吸をしながら、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、共に、今を生きる者たちとさせていただきましょう。
「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。
主よ あなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)
「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、
自分の手で働くことを名誉としなさい。」(iテサロニケ4:11)
と、聖書は教えています。