10月30日礼拝メッセージ

「愛のいましめ」 

 ーマルコの福音書に学ぶ⑱ー

聖書 : マルコの福音書12章28-34節(新p94)

メッセンジャー:高江洲伸子師

中国に行った時のこと。道路幅の広さに驚く。ところが信号機がない道があるのにはもっと驚いた。中国で何十年と宣教に携わっていた友人は、「大丈夫」と言ってさっさと渡ろうとするが、私は怖くて渡れない。人間が生きていく上でもまた、より良く生きる為の最低限な必要なルールは必要と思う。神の戒めはそのように、人が生きていく上での最小限の必要と言える。
「神の戒め」について、ヨハネ第一の手紙5章3節は、「神の命令を守ること。それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」と記し、ヨハネ15章12節は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと。これがわたしの戒めです。」と書いている。イエス・キリストもまた、律法学者の一人から「どれが第一の戒めですか」と尋ねられて、特に大切な戒めは「愛」であると答えている。

第一の戒め(30)
「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
秋の特別集会では、神の愛について、講師は非常に分かりやすく語られた。1匹の迷いでた羊を探しに行った時、残された99匹はどうなったか?野獣に襲われても良かったのか?講師は、その99匹こそイエス様であったと解釈され、私たちも納得できた。神は実にそのひとり子を失っても迷いでた1匹を捜し求められたのだ。神に背を向ける者を愛されたのだ。この神の愛ゆえに私たちは、私たちの神、主を愛する。けれど、どこまで行っても人間は弱く迷いやすく、また、神を裏切る可能性を秘めていることは事実として受け止めたい。
30節は申命記6章5節の引用。この言葉を岩波訳では、「あなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くしつつ、あなたの命を尽くしつつ、あなたの思いを尽くしつつ、愛するであろう」と訳す。他の訳においては、申命記の言葉に添って命令形で訳しているものの、原典は、未来形で書かれているというのだ。なぜ、イエス・キリストは未来形で話されたのか?それは、今現在そうでなくても、将来的に主にお会いすることによって私たちは変えられ、真に神を愛する者とされるからだ。(申命記30:6も同様)
当然ながら、主イエスは、十字架と復活だけでなく、主の再臨をも見据え、これから起こる全てをご存じでこのように言われた。けれど、旧約聖書における律法の専門家たちは、神がなさろうとしているご計画がわからないまま神の戒めを解釈し、自分たちの力で戒めの全てを行おうとしていた。これが「行いの義」。けれども、イエス・キリストや使徒パウロは、神を愛する者とされるということを信じる「信仰による義」を伝えようとした。神が私たちを愛されたことにより、私たちのうちには神を愛するということがすでに始まっている。それは今なお十分な愛とは言えないかもしれないが(Ⅰコリント13:12)、神の愛の必要を祈り求めるとき、十字架の死に至るまでの真実な愛をあらわされた御子の霊を信仰によって、頂くことができるのだ。

第二の戒め(31)
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
レビ記19章18節からの引用。このみ言葉もまた、実際は「愛するであろう」と、未来形でイエス様は話されている。イエス様の十字架の贖い以前、私たちの心は、敵意に満ちた社会にあって、どこかで傷を受けながら生きてききている。それゆえ心の底から人を信用できないでいるかもしれない。その傷ついた心の傷が癒されることなく信頼関係の回復は本当の意味では起こり得ない。この心の傷は愛によってのみ癒されるもの。
けれど、神から来る愛は、人によって傷つくことを恐れをなくする。(Ⅰヨハネ4:18)。恐れることのない愛は、その人を自由にする。恐れが無い故、そこには真の安息もある。

マタイの福音書22章40節では、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」と書かれている。神を愛することと、隣人を愛することとは、別々のことではなく、2つの中心点をもつ楕円のように、実は一つであるということに他ならない。「神への愛」と「人への愛」を重要な戒めとしたのは、イエス・キリスト以外にいない。キリスト者は「愛に生きる人」であり、キリスト教とは「愛に生きる世界」。私たちがやがて受け継ぐ天の御国もまた、愛の世界なのです。

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