10月16日礼拝メッセージ

「ぶどう園の農夫たち」

ーマルコの福音書に学ぶ⑱ー

聖書:マルコの福音書12章1-11節(新p92)

メッセンジャー:高江洲伸子師

イエス様がエルサレムに入場された後、彼を捕らえて殺そうとしていた祭司長、律法学者、長老との激しい論争の中で、この譬え話は語られました。
ある人がぶどう園をつくり、農夫たちに貸して旅に出て、収穫期がきたので分け前をとりたてようとして使いを送ったところ、農夫たちは彼を袋叩きにして追い返したり、侮辱したり、殺したりしました。そこで、最後の手段として、跡取りの息子を送りました。ところが、農夫たちはぶどう園を自分のものにしようとして、息子をも殺してしまったのです。そこで主人は怒って農夫たちを皆殺してしまい、ぶどう園をほかの人に与えてしまったという、まことに残酷な物語です。
当時、外国に占領されていたユダヤには、このような外国人の不在地主が沢山いて、小作人から厳しいとりたてをしていたので、この譬えにあるような出来事はしばしば起こったと言われます。イエス様は、人々が身近に経験しているこのような事件を通して、神の国の奥義を一つ一つ明らかにされていったのでした。

<考えてみてください>
ぶどう園の主人は、なぜ、非常に危険な状況下、大切なひとり息子、すなわちイエス・キリストを、狂暴で罪深い農夫たち、すなわちユダヤ人(人間)の所に遣わしたのでしょうか。普通であれば、大切な息子をそのような危険なところには行かせません。ところがどうしたわけか、ここでの農園主は、最後の手段としてその最愛の息子をぶどう園に遣わしたのです。なぜでしょう。
<神の愛ゆえに(1,2,6)>
ぶどう園の主人は、心を込め丹念にぶどう園を造っています。けれども、収穫の一部を受け取る為に送ったしもべらが次々と悲惨な目にあっている中にも、「私の息子なら敬ってくれるだろう」(6)という一抹の(人間に対する)期待と共に、他の僕たちのように息子までひどい扱いを受けるかもしれないという不安が交差する中で、さいごの切り札として息子を送った(ヨハネ3:16)ことでしょう。
 <人間の罪>
ところが、ぶどう園の主人の一抹の期待も裏切られ、農夫たちは農園主の息子を殺して、農園を自分たちのものにしようとした。実は、ここに人間の罪の源が描かれています。ぶどう園は神が造られたこの世界を表し、ぶどう園の主人は神ご自身であり、農夫は神が造られたこの世界に生きる私たち一人一人として考えてみれば、人間は、神が造られたこの世界から神を締め出し、自分たちが主(あるじ)となって神の座につくものとなりました。
[➀(創3:5)罪とは、神を退け、神よりも自分の思いを優先し、神を認めず、神に造られた人生から神を締め出すこと。②(創3:8,9)罪の中に生きているその結果は、神の前から身を避けるようにして生きる。神と共に生きることができない。]
<結果、遠大な救いの道が人類に開かれた(10-11)>
「家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちには不思議なことだ。」(10,11) イエス様が引用された詩篇118篇22節のみことばからその意味を知ることができます。十字架に架けられ殺された農園主の息子である、神の御子イエス・キリストこそ「家を建てる者たちが捨てた石」とされたのです。けれども、それによって、人類は十字架の死とその復活を土台とする新時代を迎えることができました。ぶどう園は「ほかの人たち」であるユダヤ人以外の國民もまた、神の民とされ、大いなるめぐみの中に生きる者とされるようになりました。それ故、イエス様は、神の救いのご計画全体を見据えながら、一筋に十字架の道を進もうとされまた。ここに、息子を農園に送られた父の真意を解することができます。

<隅のかしら石>
人々を救いに導く神のみわざは、大理石のような美しい石、華々しい軍隊を引いた指導者、また博学な器でもなく、路傍の石のように見る影もないお姿で、大工の子として生まれ、人々に辱められ、十字架に架けられたナザレのイエスによってなされたのです。私たちはこの石を土台として生きることによって、どんな嵐にも押し流されることのない、たしかな基盤のうえに人生を築くことができるのです。また、「かしら石」とは、「くさび石」のことであるとも言われています。世界中の人々は人種や国境を越えて、イエス・キリストをくさび石として受け入れることによって、一つに結ばれることができるのです。逆にこの石を取り除くと、世界中の人々は、ばらばらに分裂してくずれおちてしまうほかないのです。

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