10月2日 礼拝メッセージ

「主がお入り用なのです」

ーマルコの福音書に学ぶ⑯ー

聖書:マルコの福音書11章1-11節(新p90)

メッセンジャー:高江洲伸子師

 城壁に囲まれた町エルサレムに、キリストはロバの子に乗って入場されました。いよいよ十字架を目前にしての、死への入場です。マルコの福音書は全体の三分の一を、これから起こるエルサレムでの出来事に用いています。
 弟子たちも、人々も、まだエルサレム入場の真意を理解していません。人々の中にあるイエス・キリストへのイメージは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシアです。人々からの熱い期待の目が向けられる中、キリストは子ろばに乗ってエルサレムに入場されました。

 なぜ、ろばの子なのでしょう。
 それは、ゼカリヤ書9:9に「見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ロバの子である、ロバに乗って、」と書かれている預言の成就。そして、ここに描かれている通り、ろばは平和の王には相応しかったのです。けれど、キリストをお乗せするそのろばの子は、どのろばの子でも良かったのではありません。「まだだれも乗ったことのない」と、具体的に指定されていました。それは、まるで、花嫁が花婿に備えられるように、イエス様のエルサレム入場の為に備えられていたのです。
 ろばは馬のように戦いに勇ましく働ける動物でなく、軍馬とは比較できないほど小さく弱い動物です。けれど神様の眼差しは、いつも、その小さな弱い、取るに足りない存在だと思っている人に向けられています。そして、その時が来ると、「主がお入り用なのです」(3)と御声がかけられるのです。
 パンの奇跡の際、そこにあったのは、「7つのパン」と「小魚が少し」でした。その小量の食べ物がイエス様の御手に握られ、祝福されると、四千人もの人たちが満腹になり、余りのパン切れだけでも七つの籠になりました。(マルコ8:1-9)

 人々の思いはどうだったでしょう。
 これから十字架に向かうキリストの決死の思いとは裏腹に、パンの奇跡を見たり、聞いたりしていた群集が、「この人ならば、私たちの食卓を豊にしてくれる新しい王に相応しい」と思ったとしても、決しておかしくありません。彼らは、「ホサナ、ホサナ」(われらの主よ今救いたまえ)と、自分たちの上着を脱いで、キリストが通る道に敷き、棕櫚の葉を手にして賛美の声を上げ、キリストのエルサレム入場を歓迎しました。けれど、この群衆のさんびの声はいつまでも続きません。やがて、一転して、「十字架につけよ、十字架につけよ」というののしりの声に変わってゆくのです。なぜこんなにも早く群衆の心が早変わりしたのでしょう。それは、或いは、ローマの権力を象徴するピラトの法廷で裁かれるみじめなキリストの姿は、彼らの必要を満たしてくれる王の姿とは、あまりにかけ離れていたからかもしれません。また、この場に及んでは、キリストよりも、国の権力者である祭司長や律法学者の側につくことが得策と考えたからかもしれません。本当にそうだったのかどうかは定かではありませんが、彼らの心は一週間も待たずに、ガラリと変わったのです。

 神が必要としておられる人
 宮廷預言者だったイザヤは、ウジヤ王が死んだ年に、「高く上げられた御座に着いておられる主を見」(イザヤ6:1)ました。その時のイザヤは、「ああ、私は滅んでしまう。この私は汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ書6:5)と非常な恐れに取り囲まれていました。うなだれるイザヤに、祭壇からとった炭火を手にした主の使いが現れ、彼の口にその火を触れさせて、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」(6:7)と言った時、イザヤはその時になって、初めて、「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(6:8)との主の御声に対して、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(6:8)と応答することができたのでした。十字架の祭壇の火に触れた人は、利己心や偏見から解放され、主の御声に聞き従うことができる者とされます。
 大勇士ギデオンも小麦の打ち場に隠れている一農夫でしかありませんでした。大王ダビデもまた、ただの羊を飼う少年でした。ペテロは無学な漁師で、パウロは「罪人の頭」と言っています。神に用いられた人の共通点は、小さく弱い自分であることを認めているところです。神様は、威勢の良い軍馬ではなく、小さく弱い子ろばに「主がお入り用なのです」と御声をかけられ、用いられたのでした。

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