「神の国の法則」
聖書: マタイの福音書6章25-34節(新p10)
メッセンジャー:高江洲伸子師
9月第一主日を迎えました。多くの教会が新規日礼拝としています。私たちもまた信仰の基本に返り、新たな気持ちで実りの秋に向かってスタートをきらせて頂きましょう。
今朝の聖書箇所マタイ6章には「心配」という言葉が7回出てきます。口語訳は「思い煩う」と訳されていますが、いずれも、「気をもむ」「不安になる」といった内面を表わしています。「心配」には、配慮とか牧会などの良い心配もありますが、ここでは良くない心配に対するイエス様の教えが記されています。
マリアとマルタ(ルカ10:38-42)の場合
イエス様は、ご自分を気遣ってくれているマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。」(41)と仰られました。原文は、「マルタ、マルタ、あなたは沢山のことで思い煩い、混乱しています」です。マルタ自身はお持て成しという良い配慮だと思っていたものの、イエス様の見方は違っていたのです。それ以上に大切なことがあると言われています。御国における優先順位や価値観は、この世のものとは異なっています。不必要なことに気をもんでしまい、的をはずした心配は十分注意しなければなりません。「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(口語訳)と、ここでイエス様は仰られています。
生活(衣食住)における心配の対処法
マタイ6章における「心配」は、食べること、着ること等、生活(衣食住)に関することでした。出エジプトしたイスラエルの民も、荒野を通過した際、水や食べ物で試みられましたが、それは、結果として更に深く神を知ることにもなりました。彼らは、飲食を通して神のめぐみの実体験をしたのです。衣食住に関することは決して軽く侮れない事柄であることがわかります。
イエス様も公生涯を始めるにあたって、40日間の断食の末、サタンの試みにあわれましたが、そのサタンは、今も私たちの生活の中に入り込んできて語りかけます。「本当に神はあなたを守られるのですか」「これからは何があるかわかりませんから、こうすれば安全ですよ」と、心配を装って語りかけてきます。そして、巧に少しづつ私たちを神様中心の生活から逸らせてゆきます。私たちが安易にサタンのささやきに従ってゆくと、いつの間にか、神によって生きていたつもりが変形して、経済が中心になっていたりするので注意が必要です。神への信仰が稀薄になるにつれて、心配は拡大してゆきます。神と心配は共存できません。そこで、イエス様は、このような心配に陥りやすい私たちに、「心配」への処方箋をここで教えて下さっています。
処方箋その1は、自然から学ぶことです。
「空の鳥を見なさい」(26)とは、「よく見て熟慮しなさい」という意味で、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」(28)は、じっくりと観察し、考えてみなさいという意味です。経済が困窮してゆく時、財布から目を離して、思い切って自然に目を向けて熟慮し、自然を造られた神様と対峙する心も大切です。
処方箋その2は、「まず神の国と神の義を第一にすること」(33)です。
「与えられる」は「あなたに向かって置かれる」という意味があります。私たちがまず神の国と神の義を第一にする時、必要の全てを神はその人に向けて置いてくださる。即ち、神が面倒を見てくださるから心配ご無用と言っています。反対に、私たちが自分の必要を第一にすると、そこに、神の国と神の義を第一にもってゆくことはできなくなり、神が最も関心をもっておられることに対しても専心参与することはできなくなります。自分の必要が王座を占めてしまうからです。ではどうすれば私たちは、神の国とその義を第一にすることができるのでしょう。それは、自分の意思に手にかけて決心をし、神の国と神の義を第一に置かなければ、心の中はいつまでも世の必要でいっぱいで、それに連なる心配もまた心を支配し続けるでしょう。
処方箋その3は、今日を生き抜くことです。
「明日のことは明日が心配します。」(34) これからのことは神にしかわかりません。明日のことは明日を造られた神様が心配して下さるので、神の聖域まで口出しすることを止めなければなりません。私たちにできることは、明日のことを神にお任せすることだけです。心配はいつでも繰り返し襲ってきますから、神を信頼し待ち望みながら、その日その日しなければならないことに集中する訓練の積み重ねが大切です。神に祈り、知恵をいただき、今日という日の課題に全力で対処する喜びを体験させて頂きながら今日を生きる者とさせて頂きましょう。