「祝福して裂かれたパン」
聖書:マルコの福音書6章30-44節(新p77)
メッセンジャー:高江洲伸子師
共に食事をする喜びは私たちにとって無くてならないものですが、天地創造の始め、神様が人をエデンの園に連れて来られて、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。」(創世記2:16)と言われてより、これが家庭生活の大きな喜びとなりました。
「5つのパンと2匹の魚」この出来事は、洗礼者ヨハネが悲惨な死を遂げて、間もなくの出来事でした。御許に集まって来た群衆は、イエス様の目には「羊飼いのいない羊の群れのよう」(34)に見えました。その人達を主は「深くあわれみ、多くのことを教え始められた」(34)のです。そのうちに、遅い時刻になり(36節)、弟子たちは、お腹もすいたので今日は解散にしましょう(35-36節)と提案しましたが、イエス様は、「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」(37)と言われたのです。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。そこには男の人だけでも5千人もの人々がいました。そんなに大勢の人たちのお腹を満たす食料などそこにあるはずがありません。提供できるのは「五つのパンと二匹の魚」だけだったのです。けれどイエス様は弟子たちからその五つのパンと二匹の魚を受け取られると御手に握られて、「天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き」(41)弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはイエス様の御手の中で祝福され裂かれたパンを受け取って人々に与えました。すると、そこにいた人たち全員、「彼らはみな、食べて満腹した。」(42)とマルコの福音書は記述しています。しかも残ったパン屑だけでも十二の籠がいっぱいになったと書かれているのです。実はこの不思議な出来事は、私たちに神の民の命の糧である、大切な食べ物について知らせようとしているのでした。
1. 「寂しいところ」(31,32)
この出来事は寂しいところで成されました。「寂しいところ」、そこは
神の言葉を聴くところです。イエス様の祈りの場所もまた寂しいところでした。寂しいところとは、実際的に人里から離れた荒野を指していますが、荒野は試みられる場所でもあります。出エジプトした民は荒野を旅行中、食べ物で試みられ、天からのマナを受けました。イエス様ご自身も荒野で食べ物の誘惑にあいましたが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と、申命記8:3のみ言葉で勝利しました。パンの奇跡は、人が最も必要としているのは、神の言葉であることを示す啓示的な出来事だったのです。
2. パンと魚
マタイ7:9-11でイエス様はパンと魚を用いて、天の父の御心を教えられ、ルカ24章では、エマオ途上の二人の弟子たちに現れた復活直後のイエス様は、道々彼らに聖書を説き明かされました(24)が、最初二人の目は遮られてイエス様を認めることが出来ませんでしたが、食卓でイエス様がパンを取って神をほめたたえられてパンを裂き彼らに渡された時、初めて彼らの目は開かれて、そのお方がイエス様であることがわかったのでした。(聖書では、パンと魚には大切な意味あるようにも思えます。)
3.満足
「彼らはみな、食べて満腹した」(42)。弟子たちからパンを受け取って食べた人たちは全員十分に食べて満ち足りました。エマオ途上復活のキリストから聖書の説き明かしを受けた2人の弟子たちは言っています。「道々…私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」(ルカ24:32)と。神の民は、神のことばが正しく解釈される時、霊的な火が点火し燃やされ、魂の満腹を得るのです。「義に飢え渇く者は…満ち足りる」(マタイ4:6)、御国はまさに、そのような魂の満足と感動に満ちたところです。
ご自身を一つのパンとして
イエス様こそご自身の御体そのものを一つのパンとして、十字架上で裂かれて、私たちに分け与えられた活けるまことのパンでした。この一つの裂かれたパンから、神さまの大いなる恵みは溢れ出ました。私たちもまたこのお方に倣って、自らを神におささげした一握りのパンとして、御手の中で祝福され、裂かれて人々前に差し出されてゆく時、御の国の宣教は拡大し、多くの人の魂に、聖霊による満足を与える者とされてゆくでしょう。