3月6日 礼拝メッセージ

「あなたの罪は赦された」 

-マルコの福音書に学ぶ-

聖書:マルコの福音書2章3-12節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

マルコの福音書章は、「荒野で叫ぶ声」であるバプテスマのヨハネの出現。そのヨハネによるイエス・キリストのバプテスマ。そして弟子の選任がありました。イエス様は最終的には12名の弟子たちと共に、ガリラヤ湖畔のカペナウムに拠点を置き、宣教活動を行われました。宣教の対象は、主に一般民衆でしたが、主の慈しみに満ちた眼差しは、いつも、貧しい人や、弱く傷ついた人に向けられていました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(2:17)と、仰られたイエス様は、山上の説教の中でも、「心の貧しい者は幸いです。天の国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰めされるからです。」(4)と言われました。それは、単にみかけが貧しく弱い人に対して憐れみ深かったというのではありません。主の目は常に人の心の奥底を見つめ、心から自分の弱さを嘆き、罪に苦しんでいる人たちの上にあったということです。

イエス様の前に釣り降ろされた中風の人
カペナウムにいたイエス様のもとに(たぶん、そこはペテロの家だろうと言われている)、教えを聞くために多くの人が集まっていた時のことです。突然天井が剝がされて、イエス様の眼前に、中風で寝ている人が釣り降ろされてきたのです。普通では考えられない出来事。けれど、信仰から溢れ出たこの行為は、イエス様の心を動かしました。そして、釣り降ろされてきた人をご覧になり、「子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)と、罪の赦しを宣言されたのです。

人の最新欲求に答えられるイエス様
なぜイエス様は「あなたの病は癒された」と言われず、「罪が赦された」と言われたのでしょう。そこで、思い出されるのは、旧約聖書サムエル記です。イスラエルで最初の王に選ばれたソウルは、神への不忠実さが高じて王位から退けられました。そこで、神から新たな任命を受けて、預言者サムエルは2代目の王様選びの為にエッサイ家の息子たちのもとへ行きました。彼の目にまず止まったのは、風貌の良いエリアブでした。けれどこの時主は、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサム16:7)と言われました。そうして選ばれてきたのが、野原で羊を飼っていた少年ダビデでした。
中風を患っている人の友人たちもまた、病によって自由に動けなくなっている友の姿を見て不憫に思い、また、彼の家族の為にも切に癒しを願って四人で力を合わせてイエス様のもとにこの人を連れて来たことでしょう。詳しい経緯をマルコは書いていませんが、イエス様が突然釣り降ろされて来たその人を見た時、イエス様の目に映ったのは、外の姿もさながら、自らを責め嘆き苦しみ泣いているその人の内側の姿だったのです。イエス様は魂の医師としてその人をご覧になられて、その人が今一番必要としていたものを処方されたのでした。
「中風」は脳血管の出血により身体に麻痺がくる病気ですが、「中風」について、ネット辞典は、「中国では、悪い風にあたると病気になると考えられていて、脳が風にあたると脳卒中になるというところからきている」と書かれていました。日本人の死亡原因の第4位がこの病気だそうです。 血管性の病気はコレストロール値と深い関係がありますが、その原因は食事とストレスに関係していることは周知の通りです。悪い風に吹かれながら、ストレスを抱え喘ぎつつ現代に生きる私たちをも、主は同じ眼差しでご覧になっておられて、一人一人の心の奥底から求めているもの、最新欲求に答えようとしていてくださっています。

キリストを崇める人、キリストをそしる人
イエス様が罪の赦しの宣言をされたことを見ていた律法学者は、神への冒瀆だと考えました。イエス様が神の御子であることが受け入れられないからです。そこでイエス様は、「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」(7)という彼らの心の声をきかれて、神の子の権威を証明しました。中風の人に向かって「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(11)と、イエス様が言われると、「すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。」(12)のです。友人たちが心から願った癒しの御業は成され、人々はそれを見て驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」(12)と言って神を崇めました。
けれど、同じ主の栄光を目の前で見た律法学者、パリサイ人のイエス様に対する見方は変わることなく、むしろ反感は強まっていったのです。

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