2月13日 礼拝メッセージ

福音のはじまり 「神の選び」 

-マルコの福音書に学ぶ – ③

聖書:マルコの福音書1章16-22節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

御声に従う弟子たち
バプテスマのヨハネの「荒野の声」、続くキリストのバプテスマ。それに続いて公生涯に向かって、弟子の選任です。イエスによって選ばれた弟子たちの集団が、神に召された信者のあつまりである教会のはじまりでした。
「ご覧になった」(16,19)は「目をとめられた」。イエスの目に止まったのは、才能や容姿にめぐまれ、世間の注目をあつめている有名人ではなく、貧しく名もない平凡な人たちでした。
その一人一人にキリストの目は止まり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(17)と御声をかけられたのです。
ここで大切なことは、彼らを選んで御声をかけられたのは、あくまでもイエス・キリストの側だったと言うことです。そして、彼らはそのキリストの御声に従ったのです。信仰生活においてもこの2点はいつになっても重要です。

従う者たちの必要を備えられるキリスト
コリント人への手紙第一1・26-31 で使徒パウロは、「この世の愚かな者、弱い者、身分の低い者や軽んじられている者たち」を選ばれた、と書いています。ここに出て来る最初の弟子たちは漁師で、ギリシャ語が話せたり、書いたりできるインテリ層の人たちではなかったのです。
けれど、神様は無学なペテロに、学問的に秀でたマルコを筆記者として備えられ、このマルコによる福音書は、ペテロがキリストの側にいて見たこと、聞いたことを話、マルコが筆記したと言われています。
主の御声がかけられる時には、学問的なことだけでなく、それが健康であれ、金銭的なことであれ、御声をかけられたお方が、責任をもって、み旨を行おうとする者たちの必要を備えられることを知りましょう。主の祝福はいつも御声に従う者の上にあります。

使命を知り、使命に生きる
ペテロやヨハネたちは、特別な席で御声がかけられたのではありませんでした。
彼らは、漁をしている仕事の最中にイエスの招きの声をきいたのです。
「使命」は、決して特別な人や、特別な時にだけ臨むのではありません。
この世に生まれてきた以上、だれにも、その人に与えられている使命があります。
使命があるので今私たちはここにいるのです。「このことのために私は生まれてきた」という、使命を知ることがその人の人生を真に充実した良きものに致します。
私たちがどのような職業や生き方を選ぶにしても、それを自分に与えられた使命と確信できることが大切なことです。
人生は他者との比較しながら生きていくものではなく、自分に与えられた使命の中にこそ真の生きがいが備えられています。それは、必ずしも、健康で社会的に力強い活動をしているという意味ではありません。
病床であっても、平凡な家庭生活の中にあっても、どこであっても、神が置かれた場所で神は、「神のみわざが、現れるため」(ヨハネ9・3)に、その人を用いられるでしょう。

シモン・ペテロはじめ、ガリラヤの漁師たちに主イエスは、「人間をとる漁師」としてお声をかけられました。主は彼らの漁師としての経験を、人間をとる漁師にもっともふさわしい者として、生かしてお用いになられたのです。
イエスはひとりびとりの個性にもっともふさわしい使命を与えて、私たちをお招きくださいます。
ペテロもアンデレは、主の招きの声に、「すぐに網を捨てて」イエスに従い、ヤコブとヨハネは、「父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して」イエスの後について行きました。
漁師が網を捨てるということは、生活一切を捨てるほどの意味のあることですが、
この世で拠り所にしていたものから、ただイエス・キリストにだけに、すべてをお委ねして生きることを表しています。また、ヤコブとヨハネのように、愛情の聖別も必要でした。
最初の弟子たちは、イエス様に従って生きる私たちの将来がどのようなものか、まったく予測できなかったでしょう。彼らは全ての不安と思い煩いをイエス様にお委ねして、ためらうことなく、与えられた使命に生きようとしたのでした。
平凡な日常生活の中にあっても、このスピリットは変わりありません。
信仰生活は、人間の知恵をはるかにこえた深い神様のご計画と配慮のもとで、
私たちを生かし導かれる方に、私たちの生涯をお委ねして生きることなのです。

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