「祝福の理由」
聖書:ローマ人への手紙5章6-11節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
「艱難汝を玉にす」という諺もあるが、希望のない過剰な苦しみは人を歪めてしまう危険もある。苦難の中にあって、天から来る希望の背後には、必ず「聖霊による神の愛が注がれている」(5)。その神の愛は聖霊によって現実に私たちのものとされる。
神の愛(6-8)
➀「実にキリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(6)
「弱かった」は「正しいことをしたくても力がないのでできない」、「罪に勝つ力がない」状態。「不敬虔」は「不信心」。それは神の怒りの対象(1:18)。※神は愛だから、その愛を受けることは当然と考えるならば、神を敬わない人間は神に捨てられても当然とも考えられる。にもかかわらずキリストはそのような人たちの為に死なれた。生涯の恩人や善人の為には、死んでも良いと言う人もいるもいるかもしれない。しかし、弱く、不敬虔で罪を犯し続けている者のために死ぬ人がいるだろうか(7)。
②「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(8)
罪人はさばきを受けるのみであるのに、キリストは罪人をご自分の命と引き換えに、十字架の死をもって贖われた。(Ⅰヨハネ4:10)
義認の恵み(9)
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。(9)
人間的見地からすれば、義人、聖人も少なくはない。しかし、真の聖人は自らの内にある煩悩に苦しむ。王陽明は「山中の賊を平らげるはやすし、されど心中の賊を平らげるは難し」と言い、使徒パウロは「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」(7:14)と言った。けれど驚くことにキリストは、ご自分の命の代価と引き換えに私たちを義としてくださった。「義」<ジャスティファイ>は、「義を宣告する」という法廷用語。裁判では「有罪」か「無罪」かのどちらかが宣告されるが、私たちキリスト者は今、「キリストの血によって義と認められた」。どのような人でも、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに十字架の刑を受けて下さったと信じ受け入れる時「お前は一度も罪を犯していない」と神からの無罪宣告を受けた者とされる。
和解の福音(10)
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(10)
「和解」の反対は「喧嘩」「反目」。10節では「敵であった私たち」と言っている。世界にはキリストと敵対している人か、和解している人かのどちらかの人しかいない。ルターは、「すべての者が、少なくとも心の中では神の意志に敵対している」と言っている。けれど、キリストの十字架によって罪は取り除かれ、神と和解することができた。ヨハネ3:16では、「御子を信じる者は永遠の命を得る」とあるが、神との絶縁体が解除され、永遠の命が流れ込んできた。
神を喜ぶ(11)
それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)
もし、子どもが悪さをすれば、両親の顔を避けるように、最初の人アダムとエバもまた、罪を犯した時神の顔を避けた。けれど、今私たちは神に対して平和得ている。そして、神の栄光にあずかる希望をもって大いに神を喜んでいる。アダム以来、人間は死の狭間に立っている(ロマ3:13)。ところが、神の愛は一切の恐れを排除し、神を喜ぶ者にして下さった。私たちが祝福されている理由がここにある。
ウエストミンスター小教理問答第一は、「あなたの人生の目的は何ですか。」、それは、「神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことです。」とある。人生の目的は、決して、名誉、地位、富、知識、快楽などではない。イエス・キリストの救いこそ私たちをして、神ご自身を喜び楽しむ者とする。日常生活の中で、ふと目をつぶると、そこに永遠の喜びの世界が広がっている。神の祝福の中にある者は、日常生活のど真ん中で神と親しく交わり、輝きに満ちた喜びが溢れている。