「人生の優先順位」
聖書:マタイの福音書6章33,34節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
マタイ6:33,34から、私たちの人生の優先順位について考えてみましょう。
「まず、神の国と神の義を求めなさい」
フランシスコ会訳はこの箇所を、「まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのもの皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう。」と訳しています。「神の義」を「み旨を行う生活」と解しているのです。
「まず」とは、「何よりもまず」(新共同訳)、「まず第一に」(新改訳)、つまり「何にもまして優先して」「求める」べきは、「み旨を行う生活」であると言っています。その時、私たちが生きていくために「必要なもの全ては必ず与えられる」「備えられる」。例えば、数字の2は1にはなり得ません。数字は1があって、2,3へと続いて行く様に、神の国と神の義を最初に置く時に、次なるものは自ずと来ると言うのです。
「神の国」(バセレイア)の意味は「神の支配されるところ」という意味ですから、私の思いがどんなに素晴らしいものであっても、神の国のものであるというのではありません。私たちの生活の中心に、まず、第一に神の国と神の義であるみ旨を行うことを置く、そこから神の国は拡大してゆきます。
イエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言われました。使徒パウロは、「神の国は…義と、平和と、聖霊における喜びである」(ロマ14:17)と言いました。神の国と神の義は、まず、自らの心の中に入って行って、「義と、平和と、聖霊による喜び」を探し求めるところから始めないことには、真に神の国と神の義に出会うことはありません。
マルタとマリア(ルカ10:38-42)
ある日、イエス様がエルサレム近郊のべタニアのマルタとマリアの家を訪れた時の事です。姉のマルタはイエス様をおもてなしすることで頭はいっぱいでした。旅で疲れたイエス様に冷たい水を用意し、献立を考えることは、一家の母替わりの長女とすれば、ある意味得意分野であり、手慣れてもいたかもしれません。けれども、お弟子だけでも12人ですから、どんなにおもてなしが好きであっても、相当疲れることには違いありません。ところがそのような時に、妹のマリアは、ただイエス様の足下に座り込んで、じっとイエス様のお話に聞き入っているのです。そんなマリアに注意もしないでいるイエス様に、その苛立ちの矛先は向けられました。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」(ルカ10:40)。その言葉に主イエスは、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに思い煩っていて、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(42)、<「取り去ってはなりません」(口語訳)>と答えられたのです。
神の国は、日常生活、社会生活の中で選択、優先してゆくことによって、実生活の中で表され、開かれてゆく神の世界なのです。「主よ、この事において、み旨は何でしょうか」と、神を仰いでいるか、神に聴いているかどうかです。そこで、示されたみ旨に従いって行く時、次のできごとが定まってゆくのです。
イエス様は、苛立つマルタに、「マルタさんは多くのことに心を配って気疲れされたのですね」と、決してマルタを否定してはいません。慈しみのサインを送られています。私たちが人間関係でどれだけ心身を消耗していっているか、主はよくご存知なのです。そのような中で、如何にみ言葉を追い求めるかが、主の祝福に与る秘訣です。恐らく、マリアは忙しくしている姉マルタの事も気になっていたことでしょう。けれど、その状況の中で、マリアは来訪された主の御足もとに座り込んでみ言葉に聞き入ることを選択したのです。それは、彼女から取り去ってはならない何よりも大切なもの、唯一のものだったからです。
「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
私たちの中心に神の国と神の義を置く時、心を大きく塞ぎ占めていた思い煩いもまた、中心から離れてゆきます。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」とイエス様は仰られました。たとえ今み旨を行っていないようであっても、まず、み旨を行うことを目標に置く事です。すると、神様はみ旨を行う力をも備えてくださいます。「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」ので、そのみ旨を行う力をも与えて下さいます。「私にはできない」という思いを後ろにし、まず、神の国と神の義を第一に置くことです。